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『封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史』  作者: 鏡花
越冬編

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第80話 異界暦一周年《きねんび》

 朝から、指が勝手に動いている。


 折って、数えて、また折る。癖で数えてきた日数が、今日、切りのいいところに届いた。


 この世界に来て、一年。


 昨日も一日、市で描いた。銅貨はまた増えて、水が引くまでの宿代は足りた。今日も描く。……描きながら、僕は朝から三回、同じ勘定をやり直している。合っている。今日だ。


 祝っていい日か、わからずにいた。


 落ちてきた日だ。帰れなくなった日でもある。誕生日みたいに、まっすぐには喜べない。……だから、黙って迎えるつもりだった。指だけが、勝手に数える。


 「ルナ、きょう、へん」


 昼、店番のツキヨが言った。月が育って、この子の昼は長い。二人と一匹の一匹が、今日は人の姿で店番をしている。女将さんは朝それを一往復見て、「……三人だったのかい」とだけ言った。膝に紙束を置いて、僕の手元をずっと見ていた見張り番は、筆より先に、僕の癖を見ていた。


 「……変?」


 「ゆび、おる。なんかい も」


 「数えごとをしてただけ」


 「なにを」


 「……内緒」


 りん、と不満の音がした。見張り番に隠しごとをすると、この音が鳴る。


 「そういえば、君と会ってからは、まだ一年経ってないんだ」


 「りん?」


 「僕のほうが、この世界の先輩ってこと」


 ツキヨは少し考えて、それから自分の胸を叩いた。


 「みはりばんは、ツキヨが せんぱい」


 職歴では勝てなかった。


 夕方に店じまいをして、川べりを歩いた。


 水は少し引きはじめていた。茶色が薄れて、夕方の色が水面に戻ってきている。あと二日か、三日で、吊り橋は渡れる。


 「……ね」


 ヨゾラが隣で立ち止まった。


 「今日、何の日」


 心臓がひとつ跳ねた。


 「……なんで」


 「朝から、指。三回」


 見られていた。見張り番だけではなかった。この人のまばたきの少ない目は、僕の指の数まで読んでいる。


 隠す理由も、実はもうなかった。……言えば、この人は祝おうとする。祝われたら、僕はこの日を喜ぶことになる。帰れなくなった日を喜ぶのは、向こうの世界への裏切りに、少しだけ似ている気がしていた。


 それでも、隠しごとの利く相手ではない。


 観念して、白状した。


 「今日で——一年。僕が、この世界に来て」


 言ってから、続きが口からこぼれた。


 「祝っていい日か、わからなくて。落ちてきた日だから。帰れなくなった日だから。……でも、数えるのはやめられなかった」


 ヨゾラはしばらく黙って、川を見ていた。


 それから、言った。


 「私は、祝う」


 迷いのない声だった。


 「……ヨゾラも、数えてたの」


 「ん。ずっと」


 「一年前の今日、私は、世界でいちばん綺麗(きれい)なものを聞いた。……水汲みの帰りに。川のそばで」


 一年前の、あの日。落ちて、獣から逃げて、泥まみれで川辺に座り込んで——二度と誰にも聞かせない、と誓った、その舌の根も乾かないうちに、こぼした詠唱の続き。


 それを、聞いた人がいた。


 すごく、綺麗だね。


 ……一言残らず、いまも言える。


 「あなたには、落ちてきた日。……私には、聞いた日」


 ふと、足元を見た。……川のそばだ。


 「もしかして、この場所」


 「ん。ここが、いいと思って」


 一年前と、水の音の届くところで。この人は、訊く場所まで選んでいた。


 同じ日に、名前が二つあった。


 僕が一年数えてきた日を、この人も、別の名前で一年抱えてきたのだ。


 「だから、祝う日が、もうひとつ増えた。……六月六日と、今日」


 毎年、私が祝う。誕生日の夜に言われた言葉が、日付をひとつ連れて、戻ってきた。


 ……ずるい人だ。黙って迎えるつもりだった日を、三十秒で祝日に変えてしまった。


 「あと」


 ヨゾラが荷物から包みを出した。


 市で買った、あの小さな包み。言わない包みが、いま、開くべき日に開く。


 中から、小さな陶の壺(つぼ)が出てきた。


 蓋を取ると、深い青の粉が入っていた。夕方の光でも沈まない、底のある青。……見覚えのある色だった。毎日、見ている色だ。


 「藍だ」


 「ん。染物屋の、隅にあった」


 「これ、高——」


 「値切った」


 「……何枚」


 「三枚」


 記録更新だった。市の値切りで、ヨゾラに勝てる者は、もうこの町にいないと思う。


 「いつから、決めてたの」


 「……看板の日。黒ばっかり練ってたから、足りないと思って」


 売り物の僕の絵は、煤(すす)の黒一色だ。それで足りていた。足りていたけれど——手の中の壺には、この人の目の色と、あの子の髪にひとすじ混じる色が、粉のまま詰まっている。


 これからは、旅のどこでも、この色を出せる。


 「……最初の藍は、決めてる」


 「なに」


 「夜空」


 その晩、宿の部屋で、僕は小さな紙に藍を溶いた。


 膠(にかわ)と、水と、深い青。筆の先で試すと、紙の上に、夜がひと刷(は)け生まれた。


 一年前のあの日、僕の詠唱を綺麗だと言った人の色で、一年目の夜空を描く。星は白抜き。窓の外の実物より、少しだけ星を多くした。……絵描きには、それくらいの権限がある。


 描き上げた小さな夜空を、ヨゾラに渡した。


 「一年目の、記念」


 ヨゾラは両手で受け取って、長いこと見ていた。まばたきが減っていた。


 「……二年目も、描いて」


 「うん。毎年、描く」


 毎年、私が祝う。毎年、僕が描く。……約束の形が、この家ではいつも対になる。


 窓の桟で、月を浴びていた毛玉が、りん、とひとつ鳴らした。


 昼の不満はもう解けている。内緒の中身が、部屋の真ん中に、藍色で貼り出されたからだ。


 ちなみに、どうでもいい報告がひとつある。


 卒業の儀からも、今日で一年になる。あの日、僕は中二病を封印したはずだった。……封印したはずの五年目は、異世界で皆勤の六年目に突入した。


 在籍、六年目。留年だ。


 しかも本人に、卒業する気が、もうない。


 夜、帳面の開く音がした。僕の一年に、また名前がひとつ増える音だ。


 『ゆづきと あえて、いちねん。』


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