第81話 月下沐浴《ゆや》
湯屋は、宿の裏の坂を上がったところにあるという。
教えたのは女将さんだ。夕餉の膳を下げながら、まず橋の報せをくれた。
「明日には、渡れるよ」
「……ようやく」
「なら今夜は湯だね。旅の垢は、湯で落としてお行き」
献立を言う口調だった。逆らう理由が見つからなかった。
ツキヨは部屋で留守番だ。
日が落ちて毛玉に戻った見張り番を、窓の桟の月だまりに座らせて、部屋の内側に小さい輪をひとつ下ろした。
「留守番、頼める?」
りん。
引き受けた、の音。それから毛玉は、窓の外と戸口を一度ずつ見て、持ち場の点検を済ませた。……留守番も、見張り番の仕事のうちなのだ。
「行ってきます」
りん。
着いてみると、終い湯の刻だった。
石を組んだ湯殿に、湯気が立ちこめている。天井が高くて、湯の音が上で丸くなって、一拍遅れて降りてくる。……客は、僕たちだけだった。
「……広い」
ヨゾラの声も天井を回って、戻ってきた。家の盥とは、別の世界の広さだ。
洗い場の石に並んで座って、まず、髪を解いた。
三色の組紐の端をつまんで、ゆっくり引く。銀と、藍と、黒。旅に出た朝に編んだきりの紐が、するりとほどけて、銀の髪が背中いっぱいに広がった。
僕のも外して、二本まとめて手首に巻いて、預かる。……三色の意味は、選んだ日から変わっていない。
「雨の日も、解かなかったね」
「ん。……解くのは、洗える日。編むのは、あなただから」
時間がなかったのではない。この人の中で、順番が決まっていたのだ。洗って、乾かして、編み直す——今日が、その日だった。
桶を湯に沈める。
とぷ。
重くなった桶を持ち上げて、声をかけてから、肩に流す。
「いくよ」
ざあ。
湯が肩で割れて、石の床を走った。ヨゾラの肩から、力の抜ける音がする。二杯目は髪に。銀の髪が湯を吸って、手の中で急に重くなった。……髪は、濡れると正直になる。量も、重さも、番人の家で伸ばしてきた年月も。
指の腹で、地肌を押しながら洗う。
耳の上、つむじの後ろ、襟足。指を立てすぎず、寝かせすぎず。頭の形を、手のひらで確かめながら進む。
「……しみる?」
「へいき」
「痒いところは」
「……そこ」
申告は番人の精度だった。
湯殿の音は三つしかない。桶の、とぷ。かけ湯の、ざあ。それから、湯船の縁からあふれる、こぽ、こぽ。……その内側で、指と地肌の小さな音だけが、僕とこの人にしか聞こえない。
すすぎの湯を流すたび、銀の髪が石の上で光の筋になった。
「はい、終わり」
「……次」
振り向いたヨゾラが、桶を取った。
「次。あなた」
交代の号令は耳かきの日の再演だった。
座り直して、目を閉じる。
預ける番が、僕に回ってきた。
視界が消えると、湯殿は音だけになった。
背中のほうで、とぷ、と桶が湯をすくう。気配が近づいて、「いくよ」と声がして——ざあ。
熱が、頭から首筋へ流れ落ちていく。
それから、指が来た。
耳の上を、ゆっくり円を描く。つむじの後ろ。襟足。……僕がさっき通った道順を、この人はそのままなぞっている。見て、覚えていたのだ。
目を閉じたままの世界で、音の距離だけがわかる。遠くの、こぽ。近くの、ざあ。いちばん近くで、地肌の上の指の音。……耳のそばの水音は、どうしてこんなに大きいのだろう。
「しみる?」
「……へいき」
さっきの問診が、そっくり降ってくる。心臓の音が、湯より熱い場所で鳴っていた。
すすぎの湯が三回。
「終わり」
名残惜しい、と思ってしまったのは、内緒だ。
湯船には、並んで入った。
肩まで沈むと、こぽ、と湯があふれて、あふれた音まで上で丸くなった。手足の先から、旅の疲れがほどけて湯に溶けていく。峠の登りも、雨の停滞も、市の立ちっぱなしも、全部この湯の中に置いていける気がした。
「……昨日の絵、荷の奥にしまった」
ヨゾラが湯の中で言った。
「濡らしたくないから」
一年目の夜空はもう、旅の荷のいちばん濡れない場所にいる。……大事にされる速度が、早い。
「……町、どうだった」
天井の湯気を見ながら、聞いた。
「いい町」
ヨゾラは短く答えて、それから、少し足した。
「魚の看板と、藍の壺と、湯。……覚えることが、多かった」
この人の帳面に、町がひとつ、書き込まれた音がした。
湯から上がって、髪を乾かした。
布で挟んで、水を移す。ぱす、ぱす、と布の鳴る音。それから櫛で、上から下へ梳く。半乾きの銀は、洗う前より素直になっていた。
最後に、組紐だ。
銀と、藍と、黒。三本をそろえて、編み込みながら一本に結い上げていく。ほどいた僕が、編み直す。……家では朝の仕事だったものを、旅先の夜にやると、一日を巻き戻しているみたいだった。
「はい。再装備、完了」
「ん」
ヨゾラは編み目を指でたどって、確かめて、それから僕の髪にも、小さく三色を編み込んだ。長さが足りなくても、この人は必ず対にする。
帰り道には、月が出ていた。
育ちかけの月が坂道を照らして、湯上がりの首筋を、夜の風が冷やしていく。
宿の部屋では毛玉が、月だまりで待っていた。
戻った僕たちを、鼻先でくん、くん、と順に検分する。湯の匂い、布の匂い、編みたての紐。
りん。
留守番の報告と、検分の合格が、一つの音で済まされた。
「明日、橋を渡ろう」
「ん」
窓の外で、川の音が細くなっている。……水が引けば、道が開く。
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