第79話 粘性魔獣襲来《すらいむ》
雨は夜のうちに上がった。
朝の光が川面ではねて、町全体が、洗い立てに見えた。ただし川はまだ太い。茶色い水が、橋脚に白い牙を立てていた。
「上の吊り橋はね、この水じゃ四、五日は無理だよ」
女将さんが断言した。北の道は、水が引くまでお預けだ。
「なら——描いて、稼ぎます」
足止めの町で絵描きにできることは、ひとつしかない。幸い、看板は昨日までの雨で洗われて、軒でよく目立っていた。
市は雨上がりで混んでいた。
二日ぶんの買い物をする人で、通りの声が厚くなっている。ツキヨは今日も毛玉だ。雨の夜は月が飲めない。粉の切れた見張り番は、僕の足元の影と、店先のかごを行ったり来たりしている。人混みでは影で待つのがこの子の作法だが、店の前は持ち場に数えたのだと思う。
店といっても、借りた戸板一枚だ。看板の宿の軒先に、紙と筆を並べた。
かごの毛玉を見て、女将さんが眉を上げた。
「……二人、って言ったろ」
「二人と、一匹です」
女将さんは毛玉を一往復だけ見て、飯の勘定は変えなかった。
最初の客は粉屋のおじさんだった。
「あんたかい、魚を描き直したのは」
「はい」
「うちの戸にも、なんか描いとくれ。粉屋とわかる、縁起のいいやつ」
麦の穂を輪にして、真ん中に臼の紋。名前も入れとくれ、と言うので、屋号の綴りを聞いて、穂の上に入れた。……この世界の字は、まだ、書き慣れない。一字ずつ確かめながら書いた。
描き終わると、おじさんはしばらく戸板の絵を眺めて、それから銅貨を五枚置いた。
「……名前が入ると、ちがうなあ」
紋は目印で、名前は宣言だ。うちはここで粉を挽いている、という宣言が、戸の上で始まる。……描けば、名前は残る。呼ばれるのを待つ看板が、町にひとつ増えた。
注文は途切れなかった。
樽屋、糸屋、渡し場の小屋。かごの毛玉が銀色にひなたぼっこをしているので、子どもが寄ってきて、子どもにつられて親が寄ってくる。……看板毛玉の集客力は、僕の呼び込みより上だった。
騒ぎが起きたのは、昼前だ。
井戸のほうで、女の人の声が上がった。
「湧いたよ!!」
湧いた、って何が。
「ぬるだってさ」
隣の樽屋がのんびり言った。
——ぬる。透きとおって、ぷるぷるで、水辺に湧く。頭の中の図鑑が、その条件で一件だけ引いた。
スライム。
筆が、止まった。
スライム。魔獣図鑑の一ページ目。『禁忌の書』の討伐対象一覧、その筆頭。五年間、僕が詠唱の的として千回は想定した、あの。
「いる!? この世界に、実在——」
「そりゃ、長雨の前はよく湧くよ」
気づいたら、走っていた。
井戸端に、人が数人。桶を持ったおばさんが、面倒くさそうに井戸の縁を見下ろしている。
その縁に、いた。
手のひらほどの、透きとおった塊。ぷる、と震えて、縁の石をゆっくり這っている。水を吸って光って、中に小さな泡がひとつ、閉じこめられていた。
本物だ。
五年待った再会——いや初対面が、いま、井戸の縁で、ぷるぷると。
口の中で、決め台詞の在庫が雪崩を起こした。灼熱系か、氷結系か。カラコンは、荷に入れてきたか。いや待て、記念すべき初戦は、礼儀として王道の炎で——五年前に書いた対スライム用の決め台詞は、たしか「溶けゆく定めを憐れむがいい」で——
「はいはい、どいとくれ」
おばさんが袋の塩をひとつかみ、ぱっと振った。
しゅわ。
……しゅわ、と音がして、透明な塊は泡になり、泡は水になり、水は井戸の縁を伝って、消えた。
跡には、濡れた石と、塩の粒だけが残った。
「……え」
「なんだい」
「終わり、ですか」
「終わりだよ。塩まきゃ消えるんだ、あんなもん。放っとくと水がぬるぬるするからね」
おばさんは桶を抱えて、洗い物に戻っていった。人だかりも、何もなかったみたいに散った。
僕は井戸の縁に、立ち尽くした。
魔獣図鑑、一ページ目。討伐対象一覧、筆頭。千の詠唱で迎え撃つはずだった宿敵は——台所の塩に、三秒で負けた。
「……僕の五年を、返してほしい」
膝から、力が抜けた。
いつのまにか隣に来ていたヨゾラが、井戸の縁と僕を見比べた。
「……あれが、見たかったの?」
「見たかった。倒したかった。詠唱を、聞かせたかった」
「塩で消えるのに?」
「塩で消えるって、知らなかったんだよ……」
かごから運ばれてきた毛玉が、濡れた石の匂いを一度だけ嗅いで、りん、と鳴らした。
気の抜けた音だった。脅威度、ゼロ。見張り番の帳面には、載らない相手だ。
「ヨゾラは、知ってた? 塩のこと」
「ううん。村の井戸には、湧かないから。……山の水は冷たいの」
村で一年暮らして見なかった理由まで、いま判明した。あれは、ぬるい水の生き物だった。宿敵の格が、下がる一方だ。
「……次はもっと、大きいのがいるはずだ。森の主とか、沼の底とか」
「ん」
「絶対いる。この世界は広い」
「……ん」
ヨゾラは二回頷いて、それから、僕の袖を引いた。
「……店。お客さん、待ってる」
宿敵との再会は三秒で終わり、絵描きは店番に戻った。
午後も注文は続いた。
夕方に袋の中を数えたら、銅貨が四十を超えていた。二晩は泊まれる。水が引くまでの残りは、明日も描けば届く。
店じまいの頃、ヨゾラがひとりで市の奥へ行って、戻ってきた。
手に、小さな包みがあった。
「……また包み?」
「ん」
それだけだった。中身は言わない。刷毛のときと同じ、言わない包みだ。……詮索はしないことにした。この人の包みは、開くべき日に開く。
夜、帳面の音がした。
『すらいむ、しおに まけた。』
……事実だが、書かれると傷が深い。しかも、僕の呼び名で書いてある。
布団の中で、僕は指を折った。癖で数えている日数が、切りのいいところに近づいている。
明後日で、この世界に来て、一年になる。
……まだ、誰にも言っていない。
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