第78話 銀装整備《けづくろい》
「ね、言ったろ」
朝餉の膳を置きながら、女将さんが勝ち誇った。
外は雨だ。夜のうちに雲が空を全部使って、川の音は昨日の倍になっている。峠も北の道も、今日は歩く日ではない。……降り込められて損のない宿に、僕たちはいた。
部屋に戻ると、ツキヨは窓の桟で丸くなっていた。
昨夜の月は、早々に雲に隠れた。粉の足りない朝は、光をまとう手前で止まる。今日は一日、銀色の毛玉のままだ。
りん、とひとつ。おはよう、の音。……音は残念そうではなかった。雨の日は、この子なりの休日でもある。
休日の毛並みは、しかし、ひどかった。
桟から拾い上げたとき、僕の袖に銀の毛がごっそりついた。見れば、毛玉の体のあちこちが、ぼこぼこと段になっている。抜けかけの毛が浮いて、まだらの模様になっていた。
「……換毛期?」
「かんもう?」
「毛の生え替わり。春に、冬の毛が抜ける」
ヨゾラが毛玉を覗き込んだ。毛玉は自分の脇腹を一生懸命なめていたが、届く範囲より、抜けたい毛のほうが多い。……本人の毛づくろいが、追いついていない。
「呑むと、腹に悪い」
ヨゾラが言った。獣は抜け毛を呑む。呑んだ毛は、外に出しにくい。番人の家の知恵だった。
つまり、これは装備の不調だ。見張り番の毛皮が、いま、手入れを必要としている。
「……道具が要るね」
そこで、ヨゾラが自分の荷から包みを出した。市で買った、あの小さな包みだ。
開くと、新しい刷毛が出てきた。
「古いの、先が割れてた」
看板を描く前から、この人は僕の道具を見ていたのだ。新しい刷毛は絵の仕事へ。それなら、先の割れた古いほうは——毛の仕事へ下ろせる。
「じゃあ、こっちは今日から毛用」
絵描きの道具がひとつ、見張り番の装備係へ転属した。
床に外套を敷いて、その上にツキヨを乗せた。
「いくよ。……嫌だったら、鳴らして」
りん。
了解の音か、早くしろの音か。たぶん両方だ。
最初は、手のひらで撫でた。頭から背中へ、毛並みに沿って、ゆっくり。手にも銀の毛がつく。それから刷毛を出して、撫でた道を、もう一度なぞる。
しゅ。
刷毛が毛の浮いたところを通ると、ひと筋ぶんの銀が、ふわりと外套の上に降りた。
しゅ。しゅ。
撫でて、梳いて、また撫でる。手と刷毛を交互にすると、毛玉の警戒がほどけていくのがわかる。刷毛だけを続けると、耳がぴくりと動く。……道具より、手のほうが信用されている。当然だと思う。
雨の音と、刷毛の音だけの部屋だった。
外は太い雨、窓は細い雨だれ、外套の上は、しゅ、しゅ。……音が三重の輪になって、いちばん内側に、この銀色がいる。
調子に乗って、腹に手を回そうとした。
ぱし。
前足が僕の指を払った。目が開いて、こちらを見る。……そこは、だめ。
「すみません」
腹は急所だ。信用と急所は、別の帳面につけてある。見張り番は、気持ちよくても規律を忘れない。
背中と、腰と、頬の横。触っていい場所を、ひとつずつ教わりながら進んだ。頬の横を梳いたとき、初めて聞く音がした。
こり。
……こり、こり。
歯の音だ。小さく、規則正しく、鳴っている。りんではない音で機嫌を言うのを、聞いた。
「ヨゾラ、これ」
「ん。……いい音」
こり、こり。しゅ、しゅ。雨。三つの音が、しばらく重なった。
ヨゾラは僕の横で、外套に降りた銀を集めていた。指でつまんで、手のひらに載せて、綿を丸めるみたいに軽くまとめる。捨てる気配がない。
「……取っておくの?」
「銀の毛。もったいない」
番人の家の帳簿では、抜け毛も財産に入るのだった。手のひらの上で、小さな銀の玉が少しずつ育っていく。
そして、それは前触れなく起きた。
腰の横を梳いていたら、毛玉の体が、ことん、と横に倒れた。
「え」
刷毛が止まった。倒れたまま、動かない。足が投げ出されて、腹が半分見えている。
「ツキヨ!?」
「……大丈夫」
ヨゾラが毛集めの手を止めずに言った。
「安心すると、倒れるの。……軒下で、たまに」
倒れた毛玉の呼吸は、深くて長かった。目は薄く閉じて、耳は寝て、こり、という音がまだ、途切れ途切れに鳴っている。
……気を失ったのではない。落ちる前から、寝る気で倒れている。
すぐ逃げられない格好は、獣がいちばん嫌う格好のはずだ。それを、自分からやる。腹を半分見せて、足を投げ出して、僕の刷毛の届くところで。
見張り番の、完全な非番だった。
見張り番になってからずっと、夜も昼も、何かしらを見張ってきた子だ。祠を、軒下を、旅の道を、僕の歩幅を。……その目が、いま、何も見ていない。
「……番、代わります」
誰にともなく言って、僕は倒れた体の、届く側だけを、そっと梳き続けた。
しゅ。
こり。
雨。
午後まで、それが続いた。
途中で一度起きて、水を飲んで、それから毛玉は自分の顔を洗いはじめた。両の前足をなめて、顔をごしごし、目を閉じてごしごし。人の手の仕事のあとを、自分の作法で仕上げている。
……検品だ。あれは、僕の仕事の検品をしている。
仕上げ検品は、りん、ひとつで終わった。……合格の音だった。
夕方には、毛玉の体から段が消えていた。まだらが取れて、銀がひと続きに戻っている。ヨゾラの手のひらでは、銀の玉が、卵くらいの大きさになっていた。
「それ、どうするの」
「……冬までに、考える」
窓の外はまだ雨だった。月のない晩の毛玉は、外套の上で、貸し切りの休日を眠っている。
隣で、帳面の開く音がした。
『ぬけた けも、ぎん。』
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