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『封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史』  作者: 鏡花
越冬編

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第77話 屋号再臨《かんばんぬり》

 刷毛(はけ)を下ろす前に、板を一度、朝の日に当てた。


 光を斜めから入れると、消えかけた線には浅い溝が残っている。描いた人がそれだけ強く筆を押していた証拠だ。目で追えなくても、板は覚えている。


 「……よし」


 描くものは、もう板の中にいる。僕の仕事は、呼び出すだけだ。


 宿の裏で、板を洗って乾かした。井戸の水はまだ冬の名残で、指がすぐ赤くなった。持ってきた膠(にかわ)を湯で溶いて、煤(すす)を練る。売り物の手の、いつもの黒。それから、溝を指でなぞって、魚の形を手に覚えさせた。


 溝をなぞっていると、女将(おかみ)さんが横に来た。


 腕を組んで、黙って見ている。口は出さず、目だけが手元を追いかけてくる。……職人の手元を見る目だ。女将さんは、仕事で人を測ると決めている。


 「元の絵、どなたが」


 「先代だよ。あたしの父親」


 線の主がわかった。


 「筆の押しが強い人ですね。……溝で残ってます。だから起こせる」


 「……ふうん」


 女将さんの声が半音だけ、やわらかくなった。


 板が乾くのを待つあいだ、女将さんが北の話をしてくれた。


 煤を練る手は止めずに、耳だけ貸す。聞き込みに行く手間が、仕事場のほうへ歩いてきた。


 「北のそのまた北、って集落なら、川を遡(さかのぼ)って二日だね。二股を右。吊り橋を一本渡る」


 「唄うたいの婆さまが、いると聞きました」


 「ああ、冬市の婆さまかい」


 練る手が一瞬、止まりそうになった。……知っている。この町は、婆さまを知っている。


 「冬になると市の隅で唄を売ってる。冬市のときは、うちも北の客でいっぱいさ。毛皮だの干し魚だの、廊下まで冬の匂いになる。……でもあの婆さまは、うちには泊まらないよ。日のあるうちに来て、日のあるうちに帰る。……雪の中をだよ? 変わり者さ」


 「春は、下りてきますか」


 「来ない。春の婆さまに会いたきゃ、こっちから登るしかないね」


 二日の道を、日のあるうちに往復する。……計算が合わない。合わないまま、頭の隅に置いた。


 それから、女将さんは川のほうを顎(あご)で指した。


 「ただし、いまの時期は雪解けで川が太ってる。吊り橋が渡れるかどうかは、行ってみないとわからないよ」


 道は、わかった。障害も、わかった。旅の地図に、二つ目の目印と、一つ目の注意書きがついた。


 女将さんは、昼の支度に戻っていった。


 昼前に、足元の影が動いた。


 毛玉が滑り出て、宿の裏の日だまりで光をまとった。人の形になったツキヨは、まず袖をまくって、腕の月を見せた。半分。それから、その腕を板の魚の横に並べた。


 「ゆうがたまで、いる」


 「うん。見学席はそこ」


 ツキヨは板の正面に正座して、写しの紙を膝に置いた。絵を見るとき、この子は必ず紙を持つ。


 「……さかな」


 「そう。この宿の名前」


 「なまえ、さかななんだ」


 「川魚、って屋号。……いまから、名前を呼び直すところ」


 最初のひと筆が、いちばん緊張する。


 息を止めて、尾の、濃く残った溝に刷毛を置いた。隣で、ツキヨも息を止める音がした。……見学まで真剣だ。


置いて、引く。板が黒を受け取って、それで腹が決まった。


 描く。


 元の線を、上からゆっくり追う。速く動かすと、僕の線になってしまう。遅く動かすと、先代の線が手を引いてくれる。描くというより、思い出させる作業だった。


 薄れていた魚が、少しずつ、板の上に戻ってくる。


 「……もどってきた」


 ツキヨが小声で言った。


 そう。戻ってくる、が正しい。描き足しているのではない。ここにいたものを、呼び戻している。


 昼を回ったころ、ヨゾラが市から帰ってきた。


 塩の袋と、糸と、小さな包み。荷を置いて、開口一番に言った。


 「……二枚、値切った」


 「勝った?」


 「勝った」


 粘って、二枚。……僕に九十点をつけた人の初陣(ういじん)は、白星だった。何で粘ったのかは、聞いても教えてくれなかった。この人の勝負は、報告が短い。


 昨日、人の多さに半歩下がった人が、ひとりで市に立ってきた。怖い、でも行く。この人は、ずっとそうだ。


 午後いっぱいで、魚は泳ぎ直した。


 仕上げに、朝のうちに借りておいた宿の油を薄く引く。雨をはじく膜だ。……先代の線の上に、僕の黒と、この家の油。三人がかりの看板になった。


 油が乾くのを待つあいだ、余った黒で、端切(はぎ)れの紙に小さな魚をひとつ描いた。


 受け取ったツキヨは、写しの紙の下にそっと重ねた。紙の束が二枚になった。


 日が傾いて、ツキヨの光が抜けた。毛玉に戻って、僕の影へ。……門限どおりだ。


 軒に掛けると、通りかかった子どもが立ち止まった。


 「あ。さかなだ」


 それだけ言って、走っていった。


 ……それだけで、十分だった。名前は、呼ばれた瞬間に戻ってくる。薄れていた屋号が、いま、通りの子の口で呼ばれた。


 女将さんは軒の下から看板を見上げて、しばらく黙っていた。


 「……親父の魚だ」


 「はい。僕は、なぞっただけです」


 「なぞれる奴が、いままでいなかったんだよ」


 それから、帳場へ引っ込んで、指を三本立てた。


 「三晩、部屋代はなし。飯はつける。……看板の代金だ。文句あるかい」


 「ありません」


 宿代が絵で消えた。描きながら歩けば旅は続く、は本当だった。


 「それとね、絵描きさん」


 女将さんが窓の外に目をやった。


 「明日は雨だよ。川の匂いが変わった。……急ぎの旅でないなら、ちょうどいい。降り込められて損のない宿に、なったろ」


 夜、部屋で帳面の開く音がした。


 『さかな、もどった。』


 ヨゾラの一行は、今日も正確だった。描いた、ではなく、戻った。


 窓の桟で、毛玉が半分の月を浴びている。川の音は昨日より少し太い。……雲が、月の端にかかりはじめた。雨の匂いは、まだ僕にはわからなかった。


 呼び直せば、戻ってくる。


 ……今日の仕事は、その練習だった。北のそのまた北で待っている唄にも、同じことができるだろうか。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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