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『封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史』  作者: 鏡花
越冬編

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第76話 口上一番《はじめてのやど》

 下り坂は、登りより意地が悪い。


 息は切れないかわりに、膝に来る。半分ほど下りたところで、膝が笑いはじめた。祠道でも笑わなかった膝だ。ヨゾラは平気な顔で、ときどき立ち止まって、僕の膝が笑い終わるのを待った。


 川の音は姿より先に届いた。


 木々の切れ目から、水の匂いが上がってくる。道は川に沿って曲がり、曲がりきったところで、視界が開けた。


 橋があった。石を組んだ、低くて幅の広い橋。その向こうに、屋根が何十も並んでいる。夕暮れの煙が、家の数だけ立っていた。


 足が止まった。


 絵に描くならどこから描くか、目が勝手に順番を決めはじめる。屋根の重なり、橋の影、川に映る暮れの色。……描きたいものが、一度にこんなに増えた日は久しぶりだ。


 「……多い」


 ヨゾラが言った。家が、それとも人が、と聞き返す前に、両方だと分かった。橋を渡っていく人の数が、もう村の広場より多い。


 橋の手前で、荷の上の毛玉が身を起こした。


 りん、と短くひとつ。それから、するりと僕の影に沈んだ。人の多いところでは、影で待つ。あの子が自分で決めている作法だ。


 ……足元が、わずかに重くなる。この重さにも、もう慣れた。


 橋を渡ると、道の両側が店になった。


 といっても、半分は店じまいの最中だ。戸板を運ぶ音、桶を洗う音、売れ残りを叩き売る声。暮れの町は一日の終わりを片づけながら、こちらを気にも留めない。


 ……誰も、僕たちを見ない。


 村では歩けば、必ず誰かに呼ばれた。名前を知らない人がいなかった。ここでは逆だ。名前を知っている人が、ひとりもいない。


 ヨゾラが半歩後ろに付いた。


 振り向くと、目が少し張り詰めている。人の多さは、山の子には森より深い。


 「宿、探そう」


 「……ん」


 宿は橋の袂(たもと)から二軒目にあった。


 軒に看板が下がっている。何かの絵が描いてあったはずの板だが、雨と年月で、ほとんど木の色に戻っていた。


 帳場に女の人が座っていた。腕が太くて、目が早い。僕たちを頭から足まで一往復して、値踏みが終わった。


 「泊まりかい」


 「二人。……二食で」


 「銅貨二十五」


 来た。


 相場は聞いてある。ひと晩と二食で、二十。……この言い値は、五枚高い。最初の値段で、頷かない。


 頷かずに、黙ってみた。


 女将(おかみ)さんも黙った。値切りの沈黙には慣れているのだ。こちらの沈黙が折れるのを、帳場の肘掛けにもたれて待っている。


 沈黙の我慢比べでは、勝てない。僕の中の何かが、これは詠唱の間合いだと言った。……使える手が、ひとつある。


 困ったら、名乗る。


 「——ルナといいます。北へ行く、旅の絵描きです」


 今度は詰まらなかった。


 女将さんの眉がわずかに動いた。


 「絵描き」


 「はい」


 「……ふうん」


 目が僕の肩越しに動いて、軒の、木の色に戻った看板を見た。


 「あれ、描き直せるかい」


 「見せてください」


 外して持ってこられた板には、うっすらと魚が残っていた。


 「うちの屋号だ。川魚」


 女将さんが板の隅を指した。線は素直で、描いた人は丁寧だったのだと思う。ただ、雨が長かった。


 「描けます。……元の魚を活かして、上から起こします」


 「ほう」


 「消して新しくもできますが、この線は、消すのがもったいない」


 女将さんは板と僕を二往復見て、初めて笑った。


 「二十でいい。看板は明日、日のあるうちに頼むよ。……絵描きの言い値は、仕事を見てからだ」


 手打ちだった。


 値切ったのではなく、明日の仕事の手付けになった。財布は痛まず、明日の予定が埋まる。……こういう払い方も、あるのだ。


 帳場を離れてから、ヨゾラが小声で言った。


 「……六十点じゃ、なかった」


 「何点」


 「九十」


 十点はどこで引かれたのだろう。……聞かないことにした。満点は、たぶんあの人の中で誰にも出ない。


 部屋は二階の川側だった。


 窓を開けると、水の音がまっすぐ入ってくる。板の間に布団がふた組。それだけの部屋だが、鍵のかかる戸がある。


 まだ日の残るうちに戸を閉めると、影から毛玉が出てきた。


 出てくるなり、仕事が始まった。窓の下、戸の前、布団の下まで首を突っ込んで、部屋の隅を順番に確かめて、最後に真ん中に座った。


 りん。


 検分、合格の音だった。


 「ここ、輪はいらない?」


 ヨゾラが荷を下ろしながら言った。


 「壁があるから。……でも」


 ツキヨの耳が戸のほうを向いた。廊下を歩く足音、知らない人の声、階下の笑い声。壁は音を全部は止めない。この子には、知らない音だらけの夜が初めてだ。


 「じゃあ、小さいの」


 囁(ささや)きの詠唱で、細い輪をひとつ、部屋の内側に下ろした。半分の力の、部屋ひとつぶんの鈴。壁の代わりではない。この子の耳の仕事を、少しだけ引き受ける輪だ。


 毛玉の耳が、ゆっくりと寝た。


 夕餉(ゆうげ)は下の広間で、川魚の焼いたのが出た。この世界の川魚は、骨の付き方が僕の知っている魚と違う。外し方をヨゾラに教わりながら食べた。……山を越えても、この人に教わることが続いている。


 ヨゾラは食べ終わる前に、身のいちばんいいところを少し、布に包んで袖へ入れた。部屋で待つ口が、ひとつある。


 部屋に戻ると、毛玉は包みの中身を平らげて、窓の桟に上がっていた。屋根の下では、月が飲めない。半分に足りない月の届く場所を、この子は自分で選ぶ。


 夜、布団に入ってから、隣で帳面の開く音がした。


 『はしを わたった。やどに とまった。』


 今日は二行の日だった。


 「看板、描けそう?」


 「うん。いい線が残ってた」


 「ん」


 名乗って、泊まる場所を手に入れた。……ナガレの鉄則は、本番の一度目で効いた。今度会ったら、九十点の話をしよう。


 川の音は、輪を素通りして続いている。村の夜より、ずっとにぎやかな静けさだった。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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