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『封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史』  作者: 鏡花
越冬編

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第75話 無銘の関《とうげごえ》

 半刻で、息が上がった。


 道は素直だ。細いが、踏み跡はしっかりして、荷馬が越えるだけの幅がある。……行商のおじさんの尻を、荷馬が何十回も追いかけた道だ。


 素直でないのは、僕の足だった。


 「……休む?」


 「まだ、いける」


 「顔が、赤い」


 「登ってるからだよ」


 ヨゾラは平気な顔をしている。この人は山の子だ。祠までの道を十年、雨の日も雪の日も通ってきた足には、峠くらいでは足りないのだ。


 ……番人の務めは、脚力の鍛錬でもあったのだと、いま知った。


 ツキヨはしばらく、僕の前を歩いていた。


 ときどき振り返って、こちらの足の速さを確かめる。速すぎず、遅すぎず。歩幅を合わせる係を、誰にも頼まれずに引き受けている。


 中腹で、細い流れを渡った。


 雪解けの水が、道を横切って落ちている。ヨゾラが屈んで、少し上まで登ってから革袋(かわぶくろ)に汲んだ。汲むなら上流で、と教わったばかりだ。冷たすぎて、歯にしみた。喉は渇いていなかったが、渇く前に飲む。


 その足が、坂の途中で止まった。


 袖をまくって、腕の月を見る。うすい。


 「……もどる」


 荷を肩から外して、ヨゾラに差し出す。


 「……あずける」


 「ん」


 光の輪郭がほどけて、毛玉が雪の残る道に立った。銀の中の藍が、耳の内側へ帰っていく。


 そこへ、風が来た。


 峠の風だ。木が低いせいで、遠慮がない。毛玉の体が、ひとつ横に流された。


 「わ」


 ヨゾラが屈んで、片手ですくい上げた。それから、外套(がいとう)の合わせを開けて、そこへ入れた。


 銀色の頭だけが襟から出た。


 「……重い?」


 「軽い。心配なだけ」


 風に飛ばされる見張り番、というのは初めて聞いた。この子の職務も、天候に左右される。


 登りきったころには、日が傾きはじめていた。


 峠の上は平たかった。


 風がまっすぐ通り抜けていく。木は低く、地面は岩で、雪は日陰にだけ残っている。


 そして、石が積んであった。


 膝より少し高いくらいの石積みが、道の脇にひとつ。誰かが積んで、誰かが足して、そうやって背が伸びてきた石だ。


 「道帳に、あった」


 ヨゾラが指で紙をなぞった。峠を越える者は、石をひとつ置いていく。行商の字で、それだけ書いてある。


 理由は書いていない。


 「お願い事、かな」


 「無事に越えられた、の礼かも」


 どちらでもいいのだと思う。手を動かす習わしは、理由が薄れても残る。


 足元から、手ごろな石を三つ拾った。


 ひとつずつ置く。僕、ヨゾラ、それから襟から出ている頭のぶんをひとつ。


 石には何も書かれていない。


 名前も、日付も、印もない。積んだ人が誰で、何人が越えて、どこへ行ったのか——ひとつも残っていない。それでも、石の数だけは残っている。


 名前を書かずに、通ったことだけを残す方法。


 ……五年間、名前を書き続けた人間には、少し眩しい作法だった。


 「この峠、名前は」


 「道帳には、『峠』としか」


 名無しの峠。


 一瞬、頭の中でページがめくれかけた。銀嶺の門、とか、風の背骨、とか。……いや、やめよう。


 「名前、つけないの」


 ヨゾラが横から言った。この人は、僕の手が動きかけたのを見ていた。


 「……つけない」


 「めずらしい」


 「ここ、僕の土地じゃないから」


 名前は、押しつけるものじゃない。……この人に、教わったことだ。


 「それに、名前がないってことは、ここに住んでる人がいないってことだ」


 名づけるのは住む人の仕事だ。通り過ぎるだけの人間は、石を置いて行く。それが、ここの作法だ。


 ヨゾラは少し黙って、それから、小さく頷いた。


 「……成長した」


 「うるさい」


 振り返ったのは、そのあとだ。


 来た道が、下へ下へと折れて、木の間に消えている。その先に谷があって、そのまた先に、白っぽい山の腹が重なっている。


 村は、見えなかった。


 山がひとつ、間に入っている。それだけで、あの家も、祠も、広場も、全部その裏側だ。


 ……前に世界の外へ出たとき、僕は何も選んでいなかった。視界が白く飛んで、気がついたら、知らない森に立っていた。


 今日は、自分の足で越えた。同じ「外」でも、こんなに違う。


 「……見えないね」


 返事がなかった。


 見ると、ヨゾラが同じ方角を見ていた。まばたきが、減っている。


 「私の家の人は」


 風の音の合間に、声が落ちた。


 「たぶん、誰も、ここまで来たことがない」


 番人は村を離れられない。祠が待っている。祖母も、その前の代も、山の内側で一生を終えた。母も、外へ出たのではなく、森へ入って戻れなかっただけだ。


 この人が、家で初めて峠を越えた人になる。


 「……怖い?」


 「ううん」


 少し待つと、言い直した。


 「……ちょっと、こわい」


 「うん。僕も」


 襟のあいだから、銀色の頭が伸び上がった。ヨゾラの顎(あご)の下に、ぐいと押しつけられる。


 りん、と一回。


 大丈夫、の音だった。この子の返事は、いつも短くて、正しい。


 ヨゾラの手が外套の上から、その頭を押さえた。


 それから、前を向いた。


 下りの向こうに、川があった。


 細く光る筋が山と山のあいだを縫って、その脇に、小さく屋根が集まっている。煙が何本か上がっていた。


 町だ。


 この世界に来て、もうすぐ一年。それまで僕が知っていたのは、村ひとつと集落ひとつだけだった。それより大きいものが、いま初めて目に入った。


 「……あそこで、聞き込みだね」


 「うん」


 「宿の最初の値段では、頷かない」


 「覚えてる」


 日が暮れる前に下りきりたい。石積みに一礼して、僕たちは反対側の斜面に足を入れた。


 一度だけ、もう一度振り返った。


 山の腹しか見えない。それでも、あの裏側では、十日にいちどの祝詞(のりと)が、留守を守っている。


 ……鎖の糸は、まだ一本目にも届いていない。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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