第74話 銀匙聴診《ひざまくら》
山の朝は、耳から明ける。
鳥がひとつ鳴いて、屋根の雪解けがぽつ、ぽつ、と土を打つ。風はまだ木の上のほうにいて、下りてこない。……火の残りが、ちいさく崩れた。
峠は昼から登る。
朝の山道は凍みが残っていて、日が上がるまで待つのが決まりだと、道帳の隅に書いてあった。急がない朝が、旅程のほうから許可された。
戸口の月だまりで、毛玉が光の輪郭をまとった。
人の形が立ち上がって、袖をまくった。腕の月は、半分に少し足りない。……昼をまたげるくらいには、育っている。
それから、自分の耳たぶをつまんだ。
「……みみ、とおい」
「遠い?」
「よる、ぜんぶきこえた。いま、はんぶん」
夜どおし獣の耳で番をして、朝、人の耳に戻る。聞こえていた世界が、急に半分になる。……この子にとってそれは、目の前に霞がかかるのと変わらない。
「みはりばん、なのに」
眉が、心細い角度になった。
耳のつくりが違うだけだ、と説明しかけて、やめた。理屈は、不安の薬にならない。
代わりに、ヨゾラが自分の荷を開けた。
布包みをひとつ、ふたつ。奥から、細い銀色が出てきた。先が匙になった、あれ。
「……持ってきたんだ」
「道具は、いる」
耳掻きだ。市で、この人が買ったもの。僕の耳は、あれ以来この銀色しか知らない。
ヨゾラはそれを、僕の手に置いた。
「……君じゃなくて?」
「あなたの係。今日から」
係がまた一つ増えた。この家の職制は、旅先でも拡張を続けている。
それなら、と僕は火の前に座り直した。手ぬぐいを湯で湿らせ、火で軽く炙って、ほどよい熱さにする。準備は、儀式の半分だ。
「ツキヨ。おいで」
「りん?」
「——これより、清聴の秘蹟を執り行う」
開式の宣言に、金色の目が、まるくなった。
「ぎしき」
「儀式だ。膝に頭。目は閉じる。……見張り番の耳を、番人が整える」
ツキヨは大真面目な顔で膝に頭を乗せて、それから大真面目な顔で目を閉じた。この子は儀式という言葉に弱い。誰に似たかは、考えないことにする。
温めた手ぬぐいを、耳にそっとかぶせる。
「……ん」
肩から、力の抜ける音がした。
布の下で耳があたたまるあいだ、僕は何も言わなかった。外の雪解けが、ぽつ、と間を数える。
布を外して、銀の匙を持つ。
「右から。……動かないで」
耳のふちを、匙の背でひと撫で。それから、入り口の少し内側へ。
かり。
ちいさな音が静かな小屋に、ひとつ落ちた。
「……りん」
「痛い?」
「……きもち、いい」
掠れた声はもう半分眠っている。匙の先は奥へ入れない。入り口のあたりを、ゆっくり、掃くだけ。急がない。この儀式の作法は、たぶん、急がないことそれだけだ。
こそ。
かり。
小屋の音が、遠い順に並んでいく。外でぽつぽつと雪解け。火のはぜる音がその内側。いちばん近くに、匙の先のちいさな音。……耳のそばの音だけが、世界でいちばん大きい。
音の合間に、寝息がまじりはじめた。
浅い息がだんだん深くなる。膝の上の重さが、少しずつ増える。眠った頭は、起きている頭より重い。……信用の重さだと思うことにした。
左の耳を終えるころには、完全に寝ていた。
仕上げに、耳のふちへ息を、ふ、とひと吹き。
ぴくりともしない。銀の髪に混じった藍が、ひとすじ揺れただけだった。
外套の上にそっと下ろすと、毛布の中で丸くなった。人の形のまま丸くなるのは、獣のころの寝方だ。
顔を上げると、ヨゾラがこちらを見ていた。
じっと、見ていた。
「……次」
「え」
「次。私」
耳掻きを買った人が、膝を指差している。あの市の日から、この道具はずっとこの人のものだったのに、施術の順番は、今日から僕の側に来たものになっていた。
「……どうぞ」
ヨゾラは静かに頭を乗せた。
ツキヨより、重い。あたりまえのことに、心臓がひとつ余計に打った。銀色の髪が膝の上に広がって、藍色の目が、こちらを一度見てから、閉じた。
手ぬぐいを、もう一度あたためる。
耳にかぶせると、この人も、肩の力が抜けた。……番人の家の耳は、あたためられることに慣れていない。
思えばこの人は、ばあちゃんの耳を整えて、僕の耳を整えて——自分の番だけ、ずっと来ていなかった。
「右から。……動かないで」
同じ口上なのに、声が勝手に小さくなった。
かり。
静かだった。さっきより、ずっと静かだった。寝息の代わりに、起きている人の呼吸がある。ゆっくりで、深くて、こちらの手の速さと、いつのまにか揃っている。
「……ゆづき」
「動かない」
「上手」
「……喋らない」
素直に黙るので、余計に落ち着かない。
耳のふちを、匙の背でなぞる。かすかな音は、この人にしか届いていない。世界でいちばん近い席に、いま、僕の手だけがある。
左が終わって、仕上げだ。
ふ、と吹いた。
肩が、跳ねた。
膝から頭が浮いて、手が耳を押さえて、藍色の目がこちらを見た。何も言わない。何も言わないまま、また頭を戻して、寝転び直した。
耳が、赤かった。
「……いまの」
「仕上げ。ツキヨにもやった」
「…………そう」
嘘ではない。嘘ではないが、吹く前に一拍ためたのは、僕の意志だった。
沈黙が少し続いた。雪解けの音が、ぽつ、ぽつ、と間を埋める。
それから、ヨゾラが小さく言った。
「……もう一回」
「耳かき? それとも——」
「……両方」
日はだいぶ上がってしまった。
峠道の入り口で、目を覚ましたツキヨが自分の耳を触って、それから満足そうに頷いた。
「みみ、すんだ。とおくまで、きこえる」
気のせいだと思う。人の耳は、掃除しても性能は変わらない。……でも、不安の薬にはなったらしい。理屈より、匙のほうが効いた。
「では、番人一行——峠越えを、開始する」
誰も返事をしないまま、三つの足音が、登り道にかかった。




