第73話 別離の岐路《みおくり》
朝の集落を出て、半日、また歩いた。
明日村に戻る、と言っていた人が、そのまま北へついてきている。一晩で「もう半日だけ」に化けたのだ。帰りは南回りの道をとるという。……風回りの人の地図は、輪でできている。
二日つづいた道連れが、そろそろ終わる。それなのに、この人は最後まで喋りどおしだった。峠の風の癖、川沿いの町で高い宿と安い宿、川の水を飲むなら上流で汲めということ。
道が二股に分かれるところに、古い石が立っていた。
字は苔で埋まっていて、もう読めない。ここで南と北に分かれるのだと、道帳には書いてある。読めなくても、道のほうは分かれ続けてきたのだ。
「ここまで!!」
ナガレが石を叩いた。
「じゃ、最後にひとつだけ!!」
「まだあるんだ」
「あるよ!! ——困ったら、名乗る!!」
……名乗る。
「顔も知らない相手にね、いきなり助けてって言っても、誰も動かない。でも名前を言うと、少しだけ動く。あたし、都でそれ覚えた」
名は、力になる。この人はそれを、魔法の話としてではなく、宿を取る話として知っていた。
「じゃ、練習!! はい、名乗って!!」
「え」
「はい!!」
「……ルナ。北へ行く、旅の——」
喉が、そこで一度つかえた。
絵描きです、と続けるつもりだった。魔法使いです、でもよかった。番人です、が正しい日もある。肩書きが三つあると、人はこんなに詰まる。
「——旅の者です」
「六十点!!」
「厳しい」
「名前は言えたから!!」
ナガレは笑って、それから、荷を担ぎ直した。
「次はどこで会う?」
「わからない」
「あたしもわかんない!!」
決まっていないことを、この人は残念がらない。
「でもさ、キミたちは変な旅してるから、噂で流れてくるよ。絵の上手い旅の魔法使いと、静かなほうの人と、銀色の……ええと」
「兎かどうかは、わからない」
「銀色の何か!!」
毛玉が荷の上で、耳をひとつ動かした。異論はないらしい。
ヨゾラが前に出て、ナガレに小さな包みを渡した。干し林檎だ。昨夜、おじさんが持たせてくれた袋から、几帳面に半分。
「……道中」
「うわ、しっかりしてる!!」
ヨゾラは何も言わない。言わないが、この人は、去っていく相手には必ず何か持たせる。
別れの前に、ナガレは膝を折って、荷の上の毛玉と目を合わせた。
「銀色の。……この二人、危なっかしいから、頼んだよ」
りん、と一回。
引き受けた、の音だった。この子は、返事だけは即答だ。
別れは、あっさりしていた。
ナガレは手を振って、南の道を下っていった。三歩ごとに振り返って、四回目でこちらが手を振り返すまで、律儀に振り返り続けた。
「……行った」
「うん」
音が、減った。
二人と一匹に戻ると、風の音がやけに大きい。あの人がいた半日は、風の音を聞く隙がなかったのだ。
北の道はそこから細くなった。
家がなくなり、畑がなくなり、道の両側が木になった。雪はまだ日陰に残っていて、ときどき足がぬかるみを踏む。
日が傾くころ、行商の言っていた炭焼き小屋を見つけた。
屋根と壁と、囲炉裏の跡だけの小屋だ。人は住んでいない。旅の者が使っていいと、道帳の隅にも小さく書いてあった。
火を熾して、干し飯を戻して、林檎を一つ、三等分した。
塩と湯だけの粥は、家の粥とは別の食べ物だった。それでも、歩いたあとだと不思議とうまい。ヨゾラが自分の椀から林檎の欠片をひとつ、毛玉の前に置いた。……甘党が、自分の甘いものを譲るところを、僕は初めて見た。
食べ終わると、毛玉が火の前で光の輪郭をまとって、人の形が立ち上がった。今日、昼のあいだずっと獣のままでいたのは、このためだ。……粉を夜に回して、初めての野営を、人の形で迎える気だった。
「……ここで、寝るの」
ツキヨが天井の隙間を見上げて言った。声は落ち着いている。落ち着いたまま、目だけが、戸口と隙間の数をかぞえていた。
「野営、初めてだね」
「ん」
「怖い?」
「……こわくない。みはるから」
火の前で、その言葉を聞いた。
見張るから。この子はいつも、怖いという言葉の代わりに、仕事の名前を出す。
だから、僕は書を開いた。
「じゃあ、二人で見張ろう」
紙を膝に置いて、息を吸う。夜の森は静かで、詠唱の相手にちょうどいい。
「鳴れ、月光の鈴。夜ごと軒に張られし、銀の見張りの環よ——輪の内なるものを、守り抜け——《月鈴結界・アルジェント・ベル》!!」
一拍。
……長い。自分でも思う。ツキヨなら四字で済ませる場所を、僕は四十七字かけて通る。
それでも、鳴った。
小屋の周りに、りん、と細い輪が下りた。銀色の線が、木々のあいだをくぐって、円を閉じる。
輪の内側で、火が、少し明るく見えた。
「……ゆづき」
「うん」
「じょうずになった」
「そう?」
「はやくなった。ちょっとだけ」
四十七字が四十六字になった、くらいの進歩だと思う。それでも、この子が数えていたことのほうに驚いた。
ヨゾラが火に枝を足しながら、輪の外を見た。
「不思議。……輪の内側だけ、音が違う」
「聞こえ方が?」
「ううん。……音は同じ。私の耳のほうが、力を抜いてる」
結界が守るのは体で、緩めるのは気だ。村で家を包んでいたころ、僕はそれを知らずにいた。
「これがあると、私、眠れる」
「……番人が?」
「番人だから」
十年、夜を怖いものとして数えてきた人だ。その人が眠れると言う。それは技の効能書きに書ける、いちばん上等の一行だった。
夜が更けた。
人の時間を使い切ったツキヨは毛玉に戻り、僕とヨゾラのあいだでひと丸まりしてから、戸口の月だまりへ移っていった。屋根の下では、月が飲めない。……見張りと充電を、いっぺんにやる場所だ。
輪の内側で、燐光がゆっくり明滅している。呼吸と同じ間隔だ。
帳面が開かれる音がした。
『みはり、ふたり。』
三文字と、三文字。……数まで、そろっている。この帳面は、今日から旅の側を数えていく。
道帳を火のそばで広げて、明日を確かめた。
ここから峠までは、登りが半日。雪解けの十日あと、と行商は言っていた。指を折ると、ちょうどそのあたりだ。
「越えられる?」
「たぶん。……だめなら、戻ればいい」
戻ればいい、と言えるのが旅なのだと、つい半日前に教わったばかりだった。
火が爆ぜて、輪の銀色が、ひとつ揺れた。
「……一日、終わった」
「まだ、三月ある」
「うん」
嬉しそうに言うので、僕も、そういうことにした。
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