第72話「霜解け出立《しゅっぱつ》」
「山道は、朝の飯で歩くのよ」
アカネさんが、僕たちの椀に一杯ずつ多くよそった。番人の口調だったので、黙って食べた。
起きた時間も、粥の湯気の立ち方も、昨日までと変わらない。
変わったのは、土間だった。荷が三つ、口を締めて並んでいる。
道の書は、昨夜のうちにアカネさんへ渡してある。ヨゾラは何も言わずに差し出して、アカネさんも何も言わずに受け取った。……この親子の受け渡しは、無言で済む。
戸口で、荷を背負った。
ツキヨは朝いちばんに人の形になって、自分の小さな荷を、誰にも触らせずに自分で背負った。中身は着替えと、写しの紙。あとは僕が知らない何かが、ひとつふたつ。
「わすれもの、ない」
「……点呼まで、してくれるんだ」
「みはりばん、だから」
その職能が、旅の点呼係に転職した。
広場には、人が集まっていた。
長老が杖をついて立っていて、僕たちの顔を順に見た。
「……一季や」
「はい。一季で」
それだけだった。二度言わないのが、この人の信用の形だ。
子どもたちが押し寄せてきて、口々に叫んだ。
「しゅくだい、もうかんがえてる!!」
「ぼく、三つかんがえた!!」
「三つも!? ひとつでいい、ひとつで」
桶屋の孫は列のいちばん後ろで、たがの輪の木切れを握って、何も言わずに頷いた。……守りの詠唱は、口の軽いものではない。正しい。
イワネさんは、僕の荷の紐を一度だけ引いて、緩みを確かめた。
「おう」
それが、はなむけだった。
アカネさんが、最後に来た。
ヨゾラの襟元を直して、ツキヨの帯を直して、朝に結ったばかりの髪を指で一度だけ整えて——銀のなかの藍を、きちんと収めてから、僕の前に立った。直すところを探して、見つからなかったのか、袖の埃をひとつ払った。
「祝詞は、任せて」
「はい。鎖の目安は——」
「糸、三本。……見えないうちに、帰ってくるんでしょう」
「帰ります」
アカネさんは頷いて、それから、息をひとつ吸った。
「いってらっしゃい」
……その一言だけ、少し練習したような音がした。十年、言う相手のいなかった言葉だ。
「いってきます」
三つの声が、揃わずに重なった。
村の入り口を出たところで、前から歩いてくる人影があった。
旅装で、背中で括った明るい髪で、こちらに気づいた瞬間、道の真ん中で両手を上げた。
「ルナ!! 約束どおり春に来たよ!! ——って、なんでキミたちが旅装!?」
ナガレだった。
「今から北へ」
「今から!? あたし今着いたんだけど!? 都から五日歩いたんだけど!?」
「うん。だから、入れ違い」
「ひどくない!?」
ひどい、と思う。思うが、旅の日取りは月と雪が決めた。こちらの都合ではない。
ナガレはしばらく天を仰いで、それから、くるりと向きを変えた。
「よし、途中まで一緒に行く!!」
「え」
「北の集落までなら道は一本でしょ!! そこで一泊して、あたしは明日村に戻る!! 半年ぶんの話、歩きながら全部して!!」
決定までが早い。……この人の旅は、ずっとこの速度で決まってきたのだと思う。
そういうわけで、旅の初日は、四人になった。
ナガレは歩くのが上手かった。
上手い、というのが正しいのかわからないが、坂の前で歩幅を落とし、平らな道で戻し、僕たちが疲れる前に「はい水!!」と休みを入れる。都との往復で身についた、道の呼吸だった。
「いい? 旅の鉄則その一!! 喉が渇く前に飲む!!」
「その二は」
「宿の最初の値段で頷かない!!」
「……その三は」
「困ったら、誰かに訊く!! 道も宿も飯も、土地の人がいちばん知ってる!!」
僕は歩きながら、もらった道帳の余白に書きたくなるのをこらえた。五年間、机の上で魔法の体系を作ってきた人間として言うが、この人の鉄則は、僕の設定資料より実用的だ。
昼を過ぎたあたりで、ツキヨの足が止まった。
袖をまくって、腕の月を見る。うすい。
「……もどる」
小さな荷を肩から外して、ヨゾラに差し出す。
「……あずける」
「ん。おいで」
ヨゾラが荷の上を軽く叩くと、ツキヨは輪郭から光になって、銀色の毛玉が雪の残る道にぽんと立った。それから助走をつけて、荷の上の定位置に飛び乗った。
……髪の藍は、耳の内側へ帰っていく。出てきた場所に、きちんと戻る色だ。
ナガレが、無言でこちらを見た。
目だけが「!?」と言っていた。
「……そういう子なんだ」
「そっか!! 兎だったんだ!! どうりでかわいいと思った!!」
それで終わりだった。
……正確には、僕が兎として呼んだ。ノートの項目名は『兎型一号』だ。……訂正する理由は、ない。
詮索しない人の詮索しなさは、半年経っても健在だった。毛玉は荷の上で、風に耳を倒している。
「にしても」
ナガレが、歩きながら空に向かって言った。
「キミたち、ほんとに旅に出たんだねえ。……『旅の魔法使い』、本物になっちゃった」
以前、僕がとっさに名乗った肩書きだ。あのときナガレは「絶対うそだ!!」と即答した。
「うそだったのが、本当になった」
「うそから出た、なんとかってやつ!!」
そのことわざ、この世界にもあるのか。……言葉は、地面の下で繋がっている。
夕方、北の集落に着いた。荷を負った足は、日帰りの足より遅い。
林檎のおじさんの家に、三人と一匹で転がり込んだ。
「春は使いっ走り、秋は客、今度は泊まりか。……順調に出世しとるなあ」
……この集落での僕の格は、林檎を数えるみたいに上がっていく。
夕餉のあと、ナガレは約束の宿題を払った。都の学び舎の話——石造りの塔、百人の見習い、うるさくて広い食堂。半年待たされた話は、囲炉裏の火がひと山灰になるまで続いた。
夜が更けて、囲炉裏の端で、ヨゾラが新しい帳面を開いた。
白い紙の、いちばん上。筆が少し迷って、それから、決めた。
『いって きます。』
……道の書の一行目は、終わったことだった。旅の書の一行目は、始まりの言葉だった。
帰ったら、家の帳面に「ただいま」を書くのだと思う。それまでこの一行は、ずっと現在形のままだ。
隣でナガレが覗き込んで、めずらしく、静かな声で言った。
「……いい一行目」
風の魔法を使うときだけ静かになる人が、旅の書の前でも、静かになった。
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