第71話 唄は北から
森が終わる。
木の間が広がって、光が縦から横になって、それから、畑の匂いが来た。土と、若い葉と、遠くの煙。……村の匂いは、煙より先に、畑だった。
行きにナガレと別れた二股を通り抜け、途中の集落で一晩、世話になった。風回りの人の声のない道は、行きの半分の音しかしなかった。翌日の昼過ぎに、村の畑の端に出た。
最初に気づいたのは、やっぱり子どもだった。
「——ルナ様だ!」
畑の畦から、子どもの声が、三つ。出発の前に宿題を出した子どもたちの、先頭の三人だ。走ってくる速さが、宿題の進み具合を先に教えてくる。
「宿題、できてる!」
「発表会、いつ?」
「かいがんせよ、って、ちゃんと言えるようになった!」
……順番が逆だ。おかえり、が先だと思う。でも、宿題の報告を真っ先にする子どもを、僕は嫌いになれなかった。
「ただいま。……発表会は、近いうちに」
三人は歓声を上げて、村の中へ走っていった。報せの役は、あの三人に任せておけば、井戸端より速い。
井戸端に着く前に、井戸端のおばさんの声が、こちらに届いた。
「ルナちゃん、ヨゾラちゃん! ……あら、もう一人」
人の姿のツキヨを、近くで見るのは初めてだ。
「ツキヨです。銀色の」
ツキヨが自分で名乗った。おばさんは目を丸くして、それから、声量そのままに笑った。
「銀色の子ね。大きくなって!」
……大きくなったのではない。姿が変わったのだ。でも、この人には、それで十分だった。
家の前に、イワネさんが立っていた。
何も言わずに、僕たちを頭から足まで見て、頷いた。北の親父さんと、同じ見方をする人だ。南にも、いた。
「鐘は」
「一度も鳴らさんで済んだ」
それで、留守の報告は終わった。
戸が、内から開いた。
アカネさんが、土間に立っていた。
ヨゾラが荷を下ろすより先に、一歩出た。
「……母さん。ただいま」
「おかえり」
二語で、半月あまりの旅がヨゾラの肩から、するりと落ちた。
「祝詞は」
僕が訊くと、アカネさんは指を二本立てた。
「二度。……十日にいちど、言われたとおりに」
「糸は」
ヨゾラが訊いた。
「……見えてない。一本目も」
見えないうちに、帰ってきた。留守のあいだ、祠はアカネさんの祝詞で守られていた。……十年ぶりの、番人の声で。
夕方まで、荷を解いた。
藍の壺、火の色の筆、喉の草の束、道帳、そして帳面。……北から持ち帰ったものは、荷にすると小さかった。荷にならないものが、いちばん重い。
日が落ちて、毛玉に戻ったツキヨが、軒下へ出た。
戻るなり、仕事を始めた。
まず、月だまりの位置を確かめた。半月あまりのあいだに、月の出る場所が少しずれて、軒下の光の形が変わっている。毛玉は新しい光の真ん中を一度踏んでから、柱へ向かった。
軒下の柱に、顎をこすりつける。それから、戸口の敷居に。暖炉の縁に——そこで少し長く止まった。火の匂いが、まだ薄いからだと思う。棚の道の書の角に。……ひとつずつ、顎の下を、丁寧に押しつけて回る。
「……何を、してるの」
「点検」
ヨゾラがなんでもない声で言った。
「うちのもの、って、付け直してる。……留守のあいだに、薄くなったから」
顎の下の匂いで、自分のものに印をつける。獣の作法だ。空けていた家の、柱と戸と暖炉に、この子は「うちの」を一つずつ貼り直している。
最後に、毛玉は僕とヨゾラのところへ来た。
差し出した手の甲に、顎を、そっとこすりつけた。二度。……それから、ヨゾラの手にも。
「……僕たちも、うちのもの?」
りん。
……名前をつけて、自分のものにする。僕が五年やってきたことを、この子は顎ひとつでやる。
夜、暖炉の火を囲んだ。
三人と、一匹。……いや、四人。旅のあいだに増えた数え方を、この家はもう受け入れている。
ヨゾラが北の話をした。
婆さまのこと。婆さまが、母を知っていたこと。番人の家に一冬いた人が、北のそのまた北で唄を売っていること。……そして、四行目の節を、母の声で覚えていたこと。
アカネさんは、最後まで口を挟まなかった。
「……唄を集めていた人」
火を見ながら、言った。
「覚えてる。母が一冬、泊めた。声のいい人だった。……北にいたのね」
二十年前の冬が、この家の暖炉の前で、ひとつ繋がった。
「……私が、歌ってたのね。あなたに」
「うん。……持っていかれる前に」
「思い出せない。でも、あなたが覚えていてくれたなら、私の四行目は、まだ、どこかにある」
アカネさんは、ヨゾラを見た。
「作るの。あなたの四行目を」
「うん」
「なら、私は、聞く側」
冬に、この人は言った。思い出したら、私が歌う、と。……その約束の続きが、いま、席を替えた。歌う側から、聞く側へ。
「戸の前で、作る」
ヨゾラが棚を見た。ばあちゃんの帳面が、そこにある。……最後のページは、まだ開いていない。
ヨゾラの目が、棚から戻ってきた。
「……あの一枚も、戸の前で」
「うん。戸の前で」
明日は、子どもたちの日にする。宿題の発表会。……戸の前に立つのは、そのあとだ。順番は、決めた。
ヨゾラが道の書を膝に置いた。
旅のあいだ、この家に預けていった帳面。旅の書とは別の、この家の記録。
筆が、迷わなかった。
『ただいま。』
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白かったら ↓の☆☆☆☆☆ をポチッと評価&ブクマしていただけると、とても励みになります(^^)
☆⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️☆




