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『封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史』  作者: 鏡花
越冬編

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第70話 異界紋章師《かけだしえかき》

 旅の支度は、紙一枚から始まる。


 ヨゾラとふたり、暖炉の前に紙を広げて、要るものを書き出した。外套。替えの肌着。塩。針と糸。火口(ほくち)。縄。干(ほ)し飯(いい)。……書けば書くほど、紙の下のほうに、見て見ぬふりのできない一行が残った。


 路銀。


 飯と、宿と、渡し賃。僕の世界でもこの世界でも、道の上では銭が口を利く。


 「旅って、歩くだけじゃ進まないね」


 「番人の家に、蓄えは?」


 「……あるけど、家のぶん」


 線は、即座に引かれた。正しい。留守を守る家の蓄えを、旅が食い潰していい理由はない。


 つまり、稼ぐ必要がある。旅をしながら、旅の金を。


 ……銭を稼いだことのない十七と十八が、紙の前で腕を組んだ。


 転機は、数日後に来た。


 春のいちばん最初の行商が、村に入った。雪解け前の峠を、それでも越えてくる人だった。荷馬の背に、糸と塩と、町の匂い。


 顔は、村じゅうが知っている。冬に村を守った唄の切れ端は、この人が北から書き取ってきたものだ。


 広場に店が開くと、村じゅうが集まった。


 僕は塩を買いに行っただけだった。……のだが、行商のおじさんは、塩よりも僕の手元を見ていた。


 正しくは、僕の手元に群がる子どもたちを。


 「ルナ様、つぎ、ぼくの!」


 「はやく!」


 発端は、待ち時間の暇つぶしだった。子どもらにせがまれて、木切れに紋章を描いてやっていたのだ。それぞれの名前を聞いて、それぞれに意匠を変えて。剣の子には剣の紋を、歌のうまい子には音の紋を。桶屋の孫には、たがの輪の紋を。本人は少し不満そうだったが、輪は守りの形だと教えたら、途端に胸を張った。


 紋をもらった子から順に、「かいがんせよ!」と叫んで走っていく。……意味はもう誰も知らない。この村の子どもは、嬉しいとあれを叫ぶ。


 自分の紋章ばかり描いてきた身には、他人の紋章は新鮮だった。描いてみると、面白い。


 「……あんた、それ」


 行商のおじさんが、木切れを一枚、手に取った。


 「売りなさい」


 「は?」


 「これ、町なら売れる。看板の意匠、店の護符、荷の焼き印。……見えないものを形にできる絵描きは、そうそうおらん」


 見えないものを、形に。


 ……あのノートでやってきたことの、それが正式名称だった。


 「い、いや、これは遊びで」


 「遊びでこの線が引けるかね」


 おじさんは木切れを日にかざした。剣の紋の、刃の反りのところを指でなぞる。


 「若いの、これは道具のせいじゃない。手のせいだ。……何年、描いた」


 「…………五年」


 「ほう。修業しとるんだ」


 修業。あの日々に、初めて職業の名前がついた。黒歴史に、経歴書ができた。


 家に帰って報告すると、アカネさんは窓辺の板絵を一度見て、それから僕を見た。


 「どうりで、ね」


 あの夜空の絵で、答え合わせはもう済んでいた。


 その晩、さっそく試しに描いてみた。


 紙は行商から買った。顔料(がんりょう)は、売り物なら煤(すす)と灰で足りる。


 足りないのは、最後の一枚だけだった。


 その絵の具は、家にあった。……正確には、庭にあった。


 夜ごと、ツキヨが軒下にこぼしていく月の粉。朝には消えてしまう光の粉が、灰と膠(にかわ)に混ぜると、ほんのり残る。ヨゾラの誕生日の板絵で、一度やった手だ。もっとも、絵に残るのはただの色で、月の粉の力までは残らない。……この前の新月に、試した。


 この子が夜にこぼした光を、朝、僕が拾って絵にする。……これは、売り物の手ではない。


 描いたのは三枚。旅の護りの紋。商いの縁起の紋。それから——月の粉で、月と鈴の意匠をひとつ。


 一晩おいて、朝。乾いた三枚を縁側に並べていると、ツキヨが横に来て、月と鈴のやつを指でつついた。


 「これ、ツキヨの」


 「よくわかったね」


 「ひかってる」


 自分の粉は、わかるんだ。……光る絵の種明かしを知っているのは、この家だけだ。


 それからツキヨは、帯から自分の写しを出してきて、乾かしている絵の横に並べた。輪と鈴の紙と、月と鈴の絵。


 「……おそろい」


 覚えたての言葉を、正しい場所で使った。


 その昼、三枚を行商のところへ持っていった。


 おじさんは長いこと眺めて、それから、指を三本立てた。


 「三枚で、銅貨三十」


 高いのか安いのか、わからない。相場を知らないのが、見て取れたのだと思う。横から、すっと手が出た。


 ヨゾラだった。


 無言で、月と鈴の一枚だけを引き抜いて、僕の胸に戻した。


 「……これは、売らない」


 「ほう。じゃあ二枚で」


 「三十」


 「二枚で三十!? 嬢ちゃん、それは」


 ヨゾラは何も言わず、残る二枚を静かに引き寄せはじめた。売らなくてもいい、の構えだった。


 「……わかった、わかった。二枚で三十」


 交渉というものを、僕は初めて間近で見た。一言もまけていないのに、勝っている。


 帰りぎわ、おじさんは銅貨を数えながら言った。


 「北へ行くんだって? 出立の前に、寄りなさい。道のことなら、荷馬の次に詳しい」


 帰り道、訊いた。


 「なんで月と鈴のは、だめなの」


 「あれは、うちの」


 理由は、足されなかった。……この人の帳簿では、家のものと売り物の線が、僕より先に引かれている。


 線の内側に入れてもらった絵が、一枚。売れた二枚より、そっちのほうが、じつは嬉しい。


 銅貨三十が、旅の袋に最初に入った。


 夜、袋を吊るした柱の下で、勘定をした。北の集落までは、歩ける。その先は宿の世話になる。ひと晩と二食で、だいたい銅貨二十——相場は、おじさんに聞いた。……一回の商いで、宿がひと晩と、朝がすこし。


 「描きながら歩けば、旅は続く」


 口に出すと、思ったより、まともな稼業に聞こえた。


 誰にも見せられなかった線が、道の上では銭になるらしい。あのころの僕に教えても、信じない。……信じたところで、どうせノートは隠す。


 ヨゾラが荷の紙に、一行書き足した。


 紙。膠。筆。


 道具の欄に、僕の仕事が増えた。……番人で、絵描き。二足の草鞋(わらじ)の旅支度が、また一歩進んだ。


 そして道の書には、今日の一行。


 『ゆづき、えかきに なる。』


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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