第69話 月鈴結界《すずのわ》
鳥が、菜園に降りた。
春先の菜っ葉は、この村では貴重品だ。ヨゾラが「あ」と言ったときにはもう、僕は詠唱に入っていた。
「番え——穿星の——」
その先を言う前に、銀色が横を走り抜けた。
りん。
鈴がひとつ鳴って、鳥がいっせいに散った。羽音が空の上へ流れていって、菜園には、葉の揺れだけが残った。
僕の口はまだ、「穿星の」のあたりで止まっている。
「……終わったよ」
ヨゾラが僕の袖を、軽く引いた。
詠唱より、足のほうが速い。……この世界に来た日から知っていたはずのことを、実演で思い出させられた。
「ツキヨ、うまい」
本人が振り返って、胸を張った。三歩後ろで、その通りだ、と僕は認めるしかなかった。
昼餉の支度どき、暖炉の前で、ツキヨが袖を引いてきた。
「ゆづきの、やつ」
「うん?」
「ながいやつ。かっこいいの。……ツキヨも、ほしい」
時間が、止まった。
ヨゾラの顔を、僕は見なかった。見なくてもわかる。あの人は前に、はっきり言っている。
——この子の技に、あなたの世界の音はいらない。
あのとき、それは正しかった。名前を押しつけるな、という話だったからだ。
でも今、ツキヨは自分の口で、ほしいと言った。
「……ヨゾラ」
ヨゾラは鍋の手を止めて、しばらく黙っていた。暖炉の火が、二度、爆ぜた。
「……名前は、押しつけるものじゃない」
「うん」
「でも、ほしがるものを、取り上げるのも違う」
ヨゾラがツキヨのほうを向いた。
「ツキヨ。名前、ふたつでもいい?」
ツキヨが首をかしげた。
「……ふたつ」
「うちの名前と、そとの名前。あるでしょ」
ツキヨが、あ、と口を開けた。
先月、敷居の上で、体で覚えたばかりだ。敷居の内と外。ゆづきと、ルナ。
「技も、おんなじ。私がひとつ、あげる。ルナが、ひとつ。……どっちで呼んでも、出る」
ツキヨの目が、まるくなった。それから、ぱっと明るくなった。
「ふたつ、もらえる」
ヨゾラが、小さく頷いた。
もらえるものが二倍になった、という理解だった。……子どもの算数に、間違いはない。
技そのものは、ツキヨがもう持っていた。
何かが近づくと、鈴が鳴る。見張り番として村に来た日から、ずっとそうだ。……ただ、鳴るだけだった。届く広さも、鳴る時も、本人の気分まかせだった。
名前が、なかったからだ。
名前をもらった技は、形が決まる。あの霜色の刃が、そうだった。
「じゃあ、まず私」
ヨゾラはそれほど迷わなかった。
「……すずのわ」
鈴の輪。張った音が、そのまま輪になる。
短い。この世界の言葉らしく、暮らしの音でできている。
「すずのわ」
ツキヨが繰り返した。口にしたそばから、もう自分のものにしていた。
「次、ゆづき」
ツキヨが、こっちを向いた。
来た。
五年ぶんの蓄積が、いま試される。僕は正座をし直した。
条件を並べる。鈴。銀。輪。守る。聴く。夜。……頭の中で、ノートの後ろのほうのページが、いっせいにめくれた。
「——《月鈴結界・アルジェント・ベル》」
沈黙。
「ながい」
「長さは、本気の器だよ」
「ほんき」
「そう」
ツキヨがうっとりした顔をした。いま、僕の言った意味は半分も伝わっていない。それでも「かっこいい」だけは正確に届いている。
ヨゾラを見ると、目が少し死んでいた。
「……アルジェント」
「銀のことだよ」
「ん」
それだけ言って、鍋のほうに戻っていった。……止められなかったので、これは承認だ。
その夜、僕は机に向かった。
『禁忌の書』を開いて、白いページを探す。後ろのほう、まだ何も書いていないところ。
この本に、僕はずっと自分のことだけを書いてきた。自分の技、自分の名前、自分の設定。誰にも読めない本だった。
今日、初めて、他人のページを書く。
技の名前を二つ。効き目。使い方。呼ぶときの息の置き方。
……それから、僕用の詠唱をひとつ。僕はこの世界で、名前ひとつでは何も出せない。自分で名付けた技が相手でも、体質は曲がらない。
最後に、絵を描いた。
この子は、まだ字が読めない。だから、輪をひとつ。輪の上に、小さな鈴を三つ。輪の中に、家と、木と、丸くなった獣を一匹。
見張りの範囲、というものを、絵で説明する方法を、僕は今夜初めて考えた。
家はもう寝静まって、アカネさんの部屋の灯も落ちている。
書き終えて、それから、もう一枚。
同じものを、写した。
原本は破らない。この本から一枚も破らずに、ここまで来た。……ただ、写しなら、何枚でも作れる。
翌朝、渡した。
ツキヨは両手で受け取って、しばらく黙って見ていた。文字は読めない。絵は読める。輪の中の獣を、指でつついた。
「……ツキヨ」
「そう。輪の真ん中が、ツキヨ」
もう一度、指でつつく。何度も、つつく。
「なくしたら」
不安そうな顔になった。持ったことのないものを、はじめて持ったのだ。
「なくしても、また書くから」
「また?」
「何回でも」
月がだいぶ膨らんで、いまのツキヨの昼は長い。
その日、ツキヨはずっとそれを持って歩いた。飯のときも横に置いて、遊びに行くときは畳んで帯にはさんで、夕方には角が一つ折れて帰ってきた。
折れた角を、本人が一生懸命に伸ばしていた。
夕暮れ、庭で実演になった。
「すずのわ」
一言だった。
空気が、薄く鳴った。庭の端から端まで、音の膜が張る。ヨゾラが半歩入ると、りん、と鳴った。
「……できてる」
ヨゾラが、小さく言った。
じゃあ、こっちも、と僕は息を吸った。
「鳴れ、月光の鈴。夜ごと軒に張られし、銀の見張りの環よ——輪の内なるものを、守り抜け——《月鈴結界・アルジェント・ベル》!!」
同じものが、張られた。
同じもの。ただし、僕のほうが、十倍の時間がかかっている。
「……ルナ、おそい」
「うるさい」
ツキヨがけらけら笑った。声を出して笑うのを、最近覚えた。
その笑い声のほうが、僕には結界より価値があるのだけれど、それは言わないでおいた。
夜、道の書に一行。
『ツキヨ、わざの なまえ ふたつ。』
書いたあと、ヨゾラが小さく付け足した。
「……ふたつとも、いい名前」
どっちも、と念を押された。
ノートを書いていたころの僕に、聞かせてやりたかった。
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