第68話 霜解け行路《たびだち》
新月の朝は、家の中が少し静かだ。
暖炉の横に、銀色の毛玉がいる。今日は一日、この姿のままだ。……月のない晩の翌日は、来てから考える。そう決めていた日が、来た。
構えていたのは、僕たちのほうだった。
ツキヨは自分の前足をひとしきり眺めて、それから、自分の寝床で丸くなった。りん、と一回。なんでもない、の音。
……月のない日も、この子は、この子だった。
「はやく、なりたいねえ」
アカネさんが毛玉を撫でながら言って、それで、この家の新月は終わった。
昼前に、トウヤさんが来た。
戸口で四つ、息の数だけ礼をして、それから言った。
「……そろそろ、発とうと思います」
驚きは、なかった。祠は平熱に戻り、務めは家の中で回りはじめ、盾の出番は、この冬とともに終わっている。旅の人が旅に戻る。当たり前の話だ。
当たり前なのに、暖炉の火の音が、少し遠くなった。
「どちらへ」
「まず、南の街道を。……噂を、辿ります」
トウヤさんは、そこで一度、言葉を選んだ。
「探しものが、あるんです」
「……あの人の、名前ですか」
十五年前の旅の剣士。技の名は一字も違えず言えるのに、使い手の名前を知らない人。
「ええ」
トウヤさんは、めずらしく、少し笑った。
「名のある技は、届く。……あなたに教わりました。なら、逆も辿れるはずです。技の噂を追っていけば、いつか、使い手に届く」
礼の宛て先を、探しに行く。
十五年ぶんの礼を担いで、この人は歩く気だ。届くかどうかもわからない宛て先へ。
……気の長い話だ、とは思わなかった。五年間、届く宛てのない名前を書き続けた人間が、ここにもいる。
「見つかると、いいですね」
「ええ。……見つけます」
その晩、長老の家に集まった。
トウヤさんの送りの席、のはずだったが、酒が回る前に、僕は切り出した。
「……春になったら、僕たちも、北へ行こうと思います」
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。
ヨゾラが隣で、小さく頷く。前もって、ふたりで決めていたことだ。……言う日が今日になったのは、旅に出る人の前で言うのが、いちばん筋が通る気がしたからだ。
「唄の続きと、途切れた鎌の唄を、探しに。……どちらも、北のそのまた北へ行けば、と思っています」
長老は、火箸で灰をひとつ突いた。
「……四行目か」
「はい」
「務めは」
「アカネさんが。祝詞は、十日にいちどで回ります。ただ——」
鎖の勘定の話をした。編み足せるのは僕だけで、留守のあいだ、鎖はゆっくり痩せていくこと。だから、行きっぱなしにはできないこと。
長老は聞き終えて、湯呑みをひとつ、置いた。
「痩せる速さは、わかっとるんか」
「月に一度で足りていた頃の速さです。……一季なら、保ちます」
「なら、一季で帰ってこい」
それが、裁定だった。
「留守は任せとけ、とは言わん。……任せる相手が、もう家におるでな」
アカネさんが、静かに頭を下げた。
行くな、とは言われなかった。心配だ、とも言われなかった。……帰りの期限だけを、置かれた。この村の許しは、実務で渡される。
イワネさんが、黙って僕の椀に注いだ。
「おう」
それが、あの人の餞別だった。
席の隅で、トウヤさんがヨゾラに頭を下げていた。唄の礼だという。あの晩、刃が間に合ったのは、唄が時間を作ったからだと。……ヨゾラは首を振って、それから、思い直したみたいに、小さく頷き直した。
もらっていい礼は、もらう。この冬、この人が覚えたことのひとつだ。
トウヤさんが発つ朝は、うすく晴れた。
街道の入り口まで、みんなで送った。荷は来たときと同じで、少しだけ軽く見えた。
宿にしていた空き家には、薪がひと冬もつだけ、割って積んであったと、あとで聞いた。……礼の置き方まで、あの人は静かだ。
トウヤさんは、ヨゾラに礼をして、アカネさんに礼をした。
「……娘を、守ってくださったそうで」
「盾は、仕事をしただけです」
「その仕事に、母の礼です」
アカネさんの礼は、深くて、長かった。トウヤさんは受け終わるまで、動かなかった。
それから、しゃがんだ。
毛玉が、目の前にいた。
新月明けの朝で、ツキヨはまだ獣の姿のままだ。人の姿で見送りたかっただろうに、と思ったのは僕たちのほうだけで、本人は尻尾を一回振って、それからじっと、トウヤさんを見た。
検分の目だった。
来た日と、同じ目。
「……覚えています。最初の朝、あなたに検分されました」
トウヤさんが言うと、毛玉は、りん、と一回鳴らした。
合格の音。……行っていい、の音でもあった。
「次に来るときも、お願いします。検分」
立ち上がって、トウヤさんは最後に僕を見た。
「見つかったら、教えてください。……その人の、名前」
「ええ。あなたも。四行目が見つかったら、いつか、どこかで」
「約束します」
名前を探す者どうしの、約束だった。宛て先のない礼と、喰われた四行目。……探しものは違うのに、歩く理由は、たぶん、おなじ布の裏表だ。
息を四つ数える礼をして、あの人は歩き出した。
振り返らなかった。振り返らないのが、この人の礼儀なのだと思う。
霜色の髪が、街道の先で小さくなっていく。
夜、ヨゾラが道の書を開いた。
『トウヤさん、なまえを さがしに。』
書き終えて、筆を置いて、それから縁側の僕の隣に来た。
「……春」
「……うん」
「私たちも」
約束の棚に、旅がひとつ、載っている。
軒下で、毛玉が細い細い月を浴びていた。
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