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『封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史』  作者: 鏡花
越冬編

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第67話 そとの名前

 人になった初日は、夕暮れまでもった。


 次の日は、日が傾く前に毛玉に戻った。その次は、昼をすこし過ぎたところで。


 昼が、日ごとに縮んでいく。月が欠けるのと、同じ速さで。


 「夜に溜めて、昼に使う。……月が細れば、溜まりも細る」


 勘定としては、それだけのことだ。それだけのことが、遊びの途中で終わる。


 このまま月が細っていけば、月のない晩の翌日は——。


 ……そこから先は、来てから考えることにした。


 ツキヨは、腕の月を見る癖を覚えた。


 遊びに出る前に袖をまくって、うすくなり具合を確かめる。……あの月が、この子の時計になった。


 服が、仕上がった。


 生成(きな)りの木綿に、藍の帯。ヨゾラが夜なべで縫って、帯はアカネさんが結んだ。子どもの帯を結ぶ手つきに、迷いがない。


 「……きる。ツキヨ、きる」


 自分の名前で自分を呼ぶ。この子の一人称は、呼ばれてきた名前そのままだった。


 袖を通して、くるりと回る。回ると、銀のなかの藍が、遅れて追いかけてきた。


 「……みて」


 ヨゾラに向かって、両腕を広げた。


 「ん。……にあう」


 短い審査だった。合格の顔で、ツキヨはもう一回転した。


 それから着たその足で、村の子に見せに走っていった。……戻ってきたときには、裾にもう泥がついていた。服というものの正しい使い方ではある。


 袖は、少しだけ長い。


 手の甲に半分かかるくらい。子どもの服にしては、余らせすぎだ。……右腕の月が、袖の中にすっぽり収まる長さだった。


 寸法を測ったのはヨゾラで、縫ったのもヨゾラだ。何も言わない。だから僕も、言わなかった。


 見せるかどうかは、この子が決める。……その決めごとを、服が黙って支えている。


 外の名前の練習は、続いていた。


 続いて、負けていた。


 「ゆづき!」


 村の子の前で三回、水汲みの女の人の前で一回。そのたびに僕がしゃがんで、外では、ルナ。そのたびに、りん。


 一度だけ、間を取って両方言ったこともある。「ゆづき……ルナ」。……惜しい。合体させる方向ではない。


 わかっていないのではない、と途中で気づいた。うちの名前と外の名前が、この子の中でまだ一枚の紙なのだ。切れ目を、どこに入れていいかわからない。


 切れ目なら、家にある。


 敷居だ。


 「ツキヨ。あそび、する」


 夕方、粉の残りが少ない時間に、敷居の前へ連れていった。


 内側に立たせる。


 「ここは、うち。……ゆづき」


 「ゆづき」


 またいで、外側へ。


 「ここは、そと。……ルナ」


 「……るな」


 内。ゆづき。外。ルナ。内。ゆづき。外。ルナ。


 ツキヨは、五回目から笑いはじめた。名前が変わるのが面白いのか、敷居の上でぴょんぴょん跳んで、内と外を行ったり来たりする。


 遊びになった。……なったなら、勝ちだ。この子は遊びで覚える。


 振り返ると、アカネさんが繕いものの手を止めて、口元を隠していた。ヨゾラは隠しもせずに笑っていた。


 跳びすぎて、ヨゾラに捕まって、それで終わった。


 その日の夕方だった。


 腕の月が、もう薄い。ツキヨの言葉が、途切れがちになる。粉が切れる前は、いつもそうだ。人の形が、端からすこしずつ重くなっていく。


 暖炉(だんろ)の前で、アカネさんが繕いものをしていた。針の音と、火の音だけの時間だった。


 ツキヨはその横に座って、船を漕いで、こてんと膝に倒れた。


 アカネさんの手が、針を置いて、銀の頭に乗る。


 「……かあさん」


 小さな、声だ。


 針山に針を戻す音だけが、しばらく続いた。


 「はあい」


 アカネさんは、それだけ返した。


 ヨゾラが、台所で手を止めていた。


 振り向かない。背中だけが、こちらにある。


 ……ヨゾラの「かあさん」を、この子は毎日聞いてきた。ねえさんの、かあさん。だからこの子の中では、あの人は最初から、かあさんなのだ。


 誰も、訂正しなかった。


 この家の帳簿に、呼び名がひとつ増えた。それだけのことにして、鍋の湯気が上がった。


 寝入ったツキヨが毛玉に戻るのを見届けてから、ヨゾラが縁側に出てきた。


 隣に座って、しばらく黙っていた。


 「……かあさん、だって」


 「……うん」


 「あの子、いきなり呼ぶんだ」


 そのあとを言いかけて、止まった。


 ……ずっと呼んでいた。返ってこない十年ぶんを、この人は数えている。


 「ずるい?」


 「……ちょっと」


 ちょっと、と言うときのヨゾラは、ぜんぜんちょっとじゃない。


 でも、その横顔は笑っていた。


 軒下で、毛玉が月を浴びている。今夜の月は、また少し細い。……それでも、あの子は明日のぶんを、ちゃんと溜めている。


 使い分けができたのは、三日あとだった。


 雪の上で、村の子たちと走り回っていたツキヨが、転んだ。


 立ち上がって、まっすぐこちらを見て、大きく息を吸った。


 「——ルナ!」


 庭の空気が、一拍止まった。


 ……言えた。外の名前が、はじめて、この子の口から出た。


 「はいはい」


 声を張って返すと、ツキヨは満足して、また走っていった。転んだことは、もうどうでもよくなっている。


 村の子のひとりが、なあんだ、ルナ様かあ、と言った。……なあんだ、の使い方が正しい。この村で、僕はその程度の呼ばれ方でいい。


 そして日暮れ。遊び終わって、家に戻ってきて、敷居をまたいだ。


 またいだ足が、止まる。


 振り向いて、僕を見て、にっと笑った。


 「……ゆづき」


 内側の名前に、切り替わった。


 「おかえり」


 名前の住所を、この子は今日、覚えた。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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