第66話 月光顕現《ツキヨ》
声のかけらは、日ごとに増えていく。
「ん」から始まって、「よ」が出て、「あ」が出た。ヨゾラが名前を呼ぶと、必ず何か返す。返せたことが嬉しいのか、返したあとに尾が動く。
その朝、暖炉の横にいるはずの銀色が、いなかった。
代わりに、僕の外套が床に落ちていて、その下から、細い足首が二本出ていた。
「……ヨゾラ」
声が裏返った。ヨゾラが飛んできて、そこで固まった。
外套の下で、子どもが眠っていた。
寝息が、聞こえる。獣のときより浅くて、速い。
十くらい。膝を抱えて、丸くなって——その丸まり方だけは、昨日までのままだった。
銀の髪が、床に広がっている。長い。膝の裏まである。
銀のあいだに、藍がひとすじ、二すじ。……見覚えのある色だった。
あの耳の、内側にあった色だ。隠れていた場所から出てきて、いま、いちばん見えるところにある。
外套の袖から出た右腕に、月の形が浮いていた。手首から肘へ、内側に。……昨日まで、額にあったものだ。
袖を下ろせば、隠れる位置だった。見せるかどうかを、この子が選べる場所に移っている。
目が、開いた。
金色だった。人ならざるものの目、という感じはしない。ただ珍しい色の目をした、寝起きの子どもがそこにいた。
自分の手を見て、指を一本ずつ動かして、それから、僕たちを見上げた。
口が、動いた。
「……りん」
掠れた、低い声だった。使い慣れていない喉の音。
声が出るのに、鈴の音を口で言った。困ったとき、言葉が追いつかないとき、この子はこれを言うのだと、その一回でわかった。
ヨゾラが、床に膝をついた。手が、伸ばしかけて止まる。触れていいものか、迷っている手だ。
「ツキヨ」
「……ん」
返事は、昨日のままだった。
その返事で、ヨゾラの手が動いた。銀の頭に、ぽん、と一回。
アカネさんは、驚かなかった。
「あら」
それだけだった。
「……驚かないんですか」
「もともと、ただの獣じゃなかったでしょう。あの子」
言われてみれば、そうだ。鈴を鳴らし、影を潜り、持ち場を守る獣を、僕はいつのまにか、当たり前に見ていた。
「それが、どうして今なんですか」
「……さあ」
わからない、という顔だった。この人でも知らないことが、この世界にはまだいくらでもある。
僕は、腕の月を見ていた。
満ちている。空の月と、同じ形。
……そして思い出した。夜ごとに、この子が軒下で光っていたことを。
雪の上に、青白い粉が落ちる。指ですくうと消える、あの光。
「月の粉」
声に出すと、ツキヨが顔を上げた。
「……夜のあいだ、月を浴びてたんだ。ずっと。溜めてたんだよ、ぜんぶ」
溜めたぶんだけ、人の形でいられる。……そういうことだと思う。
だとすれば、昨夜が満月だったのは、偶然じゃない。いちばん貯まる晩の翌朝に、この子は起きてきた。
「……ヨゾラ。この子、月を食べてたんだ」
「たべ……」
「言い方は、あとで考える」
服が、なかった。
ヨゾラの古い着物を出してきたが、丈が余る。アカネさんが糸を持ってきて、ヨゾラが物差しを当てた。
肩から。腕の長さ。腰から膝。
ツキヨは、じっとしていない。測るたびに振り返って、そのたびにヨゾラが「動かないで」と言って、そのたびに「りん」と返される。
「……この子、返事だけは早い」
ヨゾラの口元が、ゆるんでいた。
この家に、子どもの寸法が要る日が来た。十年ぶりに。
髪は、昼前に取りかかった。
膝裏まである銀髪は、絡んでいた。獣の毛だったころの絡みが、そのまま残っている。
櫛を持って構えたのはヨゾラで——けれど、ツキヨは動かなかった。
じっと僕を見て、それから、ヨゾラの手から櫛を咥えて取って、僕の膝の前に置いた。
理由は、言わない。言えないのかもしれない。
……この子は、毎朝見ていたのだと思う。ヨゾラの髪に三色の紐を編みこむ手を、足元から、毎朝。
「……僕でいいの?」
訊くと、ツキヨは僕の膝に頭を乗せた。それが返事だった。
櫛を入れる。上から順に、少しずつ。絡んだところは指でほどく。
量が、多い。鎖より、こっちのほうが手間だ。
一房ずつ梳いて、途中で二回休んで、それから編みはじめた。三つ編みを二本、後ろでまとめて、余った髪を上げる。
ばあちゃんの木箱から、色糸を一本もらった。三色ではなく、一色。……この子の紐は、これから増やせばいい。
結い終わって、ツキヨが首を振った。
重さが変わったのが面白いのか、何度も振っている。それから、ヨゾラのほうを向いた。
「……ねえさん」
ヨゾラの動きが、止まった。
「見て」と言うみたいに、ツキヨが編んだ髪を持ち上げる。ヨゾラはしばらく黙って、それから、小さく頷いた。
「……うん。かわいい」
声が、少し掠れていた。
「ゆづき」
次に呼ばれたのは、僕だった。
うちの中の名前を、この子は覚えていた。誰も教えていない。……ずっと足元で、聞いていたのだ。
三人目。ヨゾラが道の書に書いた予想が、当たった。
「……なんで私は、ねえさんなの」
ヨゾラが、めずらしく不服そうに言った。
ツキヨは首をかしげて、それから「ねえさん」ともう一度言った。……理由は、この子にもないのかもしれない。
昼過ぎ、村の子どもたちが見に来た。
驚いていたのは最初の五分だけで、あとは名前を呼んで、雪の上へ連れ出していった。子どもは、事情より遊びを優先する。
ツキヨは裸足のまま出ていこうとして、ヨゾラに捕まって、履き物を履かされて、また脱いだ。
雪の上に、裸足の足あとが、一種類だけ混じっていた。
問題が起きたのは、そのすぐあとだ。
「ゆづき!」
雪玉を抱えたツキヨが、庭の真ん中から僕を呼んだ。大きな声で。
村の子どもたちが、いっせいにこちらを見た。
……この村では、ルナで通っている。
しゃがんで、目の高さを合わせた。
「……外では、ルナ」
「……ゆづき」
「うん。でも、外では、ルナ」
「……りん」
困ったときの音が出た。わかっていない顔だった。
わかるまで、待つしかない。この家は、そういう待ち方をしてきた家だ。
異変は、日が傾きはじめたころに来た。
雪玉を投げようとしたツキヨの手が、途中で止まった。
膝をついて、自分の腕を見る。……月の形が、うすくなっていた。
「ツキヨ?」
返事はなかった。輪郭のふちが、ほどけるみたいに光りはじめる。
青白い粉が、雪の上に落ちた。
銀の毛が戻ってくる。背が縮んで、四つ足になって——夕暮れの庭に、いつもの毛玉が立っていた。
村の子どもたちが、わっと声をあげた。驚きの声じゃない。もっと単純な、面白いものを見た声だ。
ツキヨは自分の前足を見て、それから僕を見上げた。
りん、と一回。
……その音が、この日いちばん、しょんぼりして聞こえた。
「今日のぶん、使いきったんだ」
夜に溜めて、昼に使う。使いきれば、戻る。
……門限だ。この子が人でいられる時間には、終わりがある。
ヨゾラがしゃがんで、銀色の背中に手を置いた。
「……また、あした」
尾が、一回だけ動いた。
夜、ツキヨは軒下へ出ていった。
いつもの場所で丸くなって、月を浴びている。……あれが、明日の昼になる。
縁側から、ヨゾラとふたりでそれを見ていた。
「昼は、三人」
「……うん」
「夜は、こっち」
ヨゾラが、僕の肩に頭をあずけた。夜は静かなままだ。この時間は、まだ僕たちのものでいい。
家の中で、道の書が開かれる音がした。
今日の一行は、少し迷ってから書かれた。
『ツキヨ、ひるは ひと。』
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