第65話 はじめての返事
昨夜、村のどこかで唄が聞こえた。
守りの声じゃなかった。誰かが子どもを寝かしつける、ただの唄だった。……網は、ほどけて、ただの唄になっている。
祝いから二日して、アカネさんは杖なしで歩いた。
その次の朝、囲炉裏の前で、あらたまってこう言った。
「今日、家に戻るわ」
ヨゾラが箸を置いた。置いただけで、何も言わなかった。……言葉より先に、耳が赤くなる人だ。
荷物は、ほとんどなかった。十年前のあの晩から、あの人の持ち物は時間ごと影に呑まれていた。村の人たちが少しずつ持ち寄った着替えと、椀がひとつ。それだけを抱えて、番人の家の敷居をまたいだ。
「……ただいま」
ヨゾラが、まっすぐに受けた。
「おかえり、なさい」
起きている人に、言えた。練習の成果は、二回目で本番になった。
ばあちゃんの部屋の戸を、ヨゾラが開けた。
アカネさんは敷居で一度止まって、それから、ひとまわり、中を見回した。
埃が、なかった。
畳んだ布団。拭かれた棚。窓の桟まで、指でなぞっても白くならない。ばあちゃんがいなくなってから一年、閉めきっていたはずの部屋が、昨日まで誰かが住んでいた顔をしていた。
「……あけて、くれてたのね」
「ん。……ときどき、風だけ」
ときどき、と言った。……ときどきの掃除で、部屋はこの顔にならない。一年ぶんの、ときどき。この部屋は、待つ形のまま保存されていた。
アカネさんは何も言わずに、ヨゾラの頭を一回だけ撫でた。ヨゾラは、されるままになっていた。
棚の隅に、木の箱がひとつ。アカネさんが蓋を開けると、組み台と、色糸の束が出てきた。……ばあちゃんの、組紐の道具だ。
アカネさんはそれを一度だけ指で撫でて、蓋を閉じ、元の場所に戻した。開けた意味も、戻した意味も、訊かなかった。
布団を運び、行李を置いた。
ツキヨは手ぬぐいを一枚咥えて運んで、仕事を手伝った気になっていた。
夕餉の椀が、四つ並んだ。
三人と、一匹。この家の頭数が、ひとつ増えた。
翌日、アカネさんとヨゾラと、三人で祠へ行った。
十年ぶりの森の道を、あの人は一歩ずつ、確かめるように歩いた。祠の前に着くと、足を止めて、長いあいだ黙っていた。
自分が呑まれた場所だ。……怖がるだろうと思っていた。
「ただいま、って言うのも、変ね」
笑っていた。この親子は、怖がる順番を、どこかに置いてくる癖がある。
それからアカネさんは、祠に向かって祝詞をひとつ唱えた。
隣でヨゾラが、小さく息を呑んだ。
「……ばあちゃんの、節」
娘が覚えているのと、同じ祈り。十年しまわれていたはずの節は、どこも欠けていなかった。
結び目を見て、戸を見て、それからアカネさんは、番人の顔になった。
「祝詞はね、母から娘へ、一人ずつ渡すものなの」
ばあちゃんは、孫には渡さなかった。唄だけを渡して、危ない側は自分で持ったまま逝った。
……娘を影に取られた家で、残った子まで祠の前に立たせたくなかったのだと思う。
「私が呑まれてから、この家に祝詞は一本もなかった。……番人が、いなかったのよ」
それでも、封は保った。
鎖を編む人間が落ちてきて、唄をうたう娘が祠に通って、二人でひとつぶんの務めを回してきた。
アカネさんは、僕とヨゾラを順番に見た。
「ふたりで一人ぶん、ちゃんといたのね。……よく、もたせてくれました」
番人はいなかった、と言った口が、いた、と言い直した。
ヨゾラが、下を向いた。耳が、また赤い。
「これからは、二つで分けましょう。祝詞は私、鎖はあなた」
二本で、ひとつ。……この冬ずっと、僕たちに足りていなかったのは、片方の一本だった。
「……唄は」
ヨゾラが訊いた。
「唄は、務めじゃないの。……あの子が起きたとき、こっちを向かせるためのもの」
守りではなく、囮。祠の前でいちばん危ない役を、この人は娘の仕事だと知っている。
「だから、いちばん要る日に要るのよ。……いつも要らないのが、いちばんいい」
「昔は、月にいちど。満ちる晩に見に行けば足りたの」
「……いまは」
「戸に、穴が空いてるから。……十日にいちど、かしらね。念のため」
十日にいちど、どちらかが。この冬の朝夕二回が、どれだけの非常だったのか、終わってから寸法がわかった。
「でもね」
アカネさんが、鎖のほうへ目をやった。
「編み足しだけは、あなたにしかできない。……あなたがいない間、鎖は少しずつ痩せていく。ゆっくりだけれど、確かに。覚えておいて」
あなたがいない間。
その言い方に、僕は一拍、遅れた。
「……僕、どこかに行く予定は」
「あら。ないの?」
アカネさんは、僕の顔をのぞきこんだ。夕焼け色の目が、面白がっている。
「四行目。……探しに行く人の顔を、してたから」
図星を、こんなにやわらかく撃つ人を初めて見た。
……考えていなかった、と言えば嘘になる。名前だけの灯り。返る先を失くした名前たち。喰われた四行目。地図のない宿題が、あの晩からずっと、頭の隅に積んだままだ。
「まだ、決めてません」
「ん。……決めるときは、鎖の勘定も入れて決めなさい」
番人の引き継ぎは、旅の許可証と同じ形をしていた。
帰り道、ヨゾラが言った。
「……ふたりで、一人ぶん」
さっきの言葉を、口の中で転がしている。
「ん」
「ずっと、半分だと思ってた」
半分の唄。半分の言い伝え。この土地は、欠けたものを数えるのが上手すぎる。
「半分と半分で、一人ぶんだったの」
「……足し算、合ってる」
ヨゾラが、めずらしく笑った。目のなくなる笑い方だった。
歩きながら、アカネさんが小さく付け足した。
「……いい娘に、育ててもらったわね。ばあちゃんに」
誰に向けた言葉でもなかった。だから、聞かなかったことにした。
そういえば昼間から、ツキヨは喉のあたりを気にする仕草をしていた。前足で二度、三度。……虫でも入ったのかと思っていた。
夜になった。
暖炉の火のまわりに、四人ぶんの影が伸びる。ツキヨはアカネさんの膝の横で、尾を体に巻いて丸くなっていた。
ヨゾラが、なんの気なしに呼んだ。
「ツキヨ」
いつもなら、りん、と返る。
返らなかった。
銀色の毛玉が、顔を上げた。喉のあたりが、一度、小さく動いた。
「……ん」
火の爆ぜる音の隙間に、それは確かに、聞こえた。
りん、じゃなかった。鳴らす音じゃなくて、出す音。この家でいちばん短い返事を、あの子は真似したのだ。
誰も、動けなかった。
ヨゾラの箸が、止まったまま宙にある。アカネさんの手が、口元にある。
ツキヨは、自分の出した音に自分で驚いた顔で、耳をぴんと立てて固まっていた。
「……ツキヨ」
もう一度、ヨゾラが呼んだ。今度は、震えている。
「……ん」
二度目は、少しだけ上手だった。
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