第64話 ただの唄
祠までの道は、千二百歩ある。
三日たった朝、それを自分の足で数えた。
雪はまだ深い。息は白い。それでも、膝はもう笑わなかった。鍋、箸、足。回復の目盛りが、三つ目まで進んだ。
結び目を、自分の指で確かめる。太い。……ただ、指の腹でやっとわかるくらい、細っていた。
月鎖の祝詞を、口の中で。五日ぶんを、編み足した。
……五日で、これだけ。
月に一度で足りていたころの痩せ方に、戻っている。この冬、日ごとに目で見えたあの細り方は、もう止まっていた。
戸の破れ目は、破れ目のまま静かだった。穴は、まだ塞がっていない。……中身が、深いところで眠っているだけだ。
「ただいま」とだけ言って、祠に背を向けた。
帰り道の千二百歩は、行きより軽かった。
その晩、長老が家に来て、暖炉の前でこう言った。
「今年は、冬越しの祝いを早めにやる」
「……まだ、雪は深いですけど」
「山はな。……そやけど、いちばん深いところは、もう越えたやろ」
返す言葉に迷っていると、長老は火箸で灰に一本、線を引いた。
「それとな。唄のことや」
この冬、村じゅうで繋いできた声の網。夜の唄リレー。あれをどうするか、という話だった。
「唄は、続ける。……ただし、守りの唄やのうて、ただの唄として、や」
守りのためじゃなく。怖さのためじゃなく。
ヨゾラが、暖炉の火を見たまま、小さく頷いた。ひとりで守ってきた唄が、村の唄になる。……その晩の相談は、それだけだった。
「ええ唄やと、みんな気づいてしもたからな。いまさら黙れんやろ」
長老はそれだけ言って、帰っていった。
戸口を出るとき、壁の二枚の紙を順に見て、小さくひとつ頷いて出ていった。規約の紙と、持ち場の紙。……この冬の道具を、確かめる目だった。
祝いの日は、よく晴れた。
広場に火が焚かれて、大鍋が湯気を立てた。雪の上に筵が敷かれ、村の人が集まってくる。
アカネさんは、ヨゾラの肩につかまって歩いてきた。初めての外だ。十年ぶりの、村の真ん中だった。
席がひとつ、火のいちばん近くに空けてあった。誰が決めたのでもなく、自然とそうなっていた。
イワネさんが黙って回ってきて、大人の椀に順番に注いでいく。僕の前でも「おう」とだけ言って注いでいった。……中身は、大人のやつだ。
ツキヨは子どもたちの側にいた。追いかけられて、追いかけて、雪を蹴散らしている。銀色が雪の白に混ざって、ときどき見失う。
トウヤさんが、僕の椀に汁を注ぎながら言った。
「……ひとつ、白状してもいいですか」
「はい」
「昔、名のある技に、救われたことがあります。子どもの時分です。旅の剣士でした」
汁の湯気の向こうで、あの人は火を見ていた。
「技の名は、いまでも言えます。一字も違えずに。……でも、使い手の名前を、私は知らない。訊く前に、行ってしまわれたので」
技名は覚えている。人の名前を、知らない。
「ずっと、悔しかった。……礼を言う宛てがないんです。十五年、名前のない人に助けられたままでいる」
「……その技、なんという名前だったんですか」
トウヤさんは、名前を言った。いい名前だと思った。その一言だけで十五年、人ひとりの背筋を立たせつづけた名前だ。
「……それで、技名に」
「ええ。名のある技は、届くと思っていました。あの晩、確かめられました」
トウヤさんは、そこで初めてこちらを見た。
「あなたの技は、名前ごと覚えられます。技の名も、使い手の名も。……救われた側が、礼の宛て先に困らない。それは、いい技です」
礼の宛て先。
五年間、誰にも読まれないノートに書いてきた名前たちが、宛て先になれると言われた。……汁が、少ししょっぱかった。
日が傾きかけたころ、長老が立ち上がった。
「ほな、唄や。……今年から、ただの唄や」
村の人たちが、なんとなく姿勢を直す。誰が歌い出すのか、視線がゆるく泳いだ。
アカネさんが、手を挙げた。
「……私から、いい?」
ヨゾラが隣で、アカネさんの手を一度だけ握って、離した。付き添いはここまで、の合図だった。
火のそばで、小さい人が背筋を伸ばす。十年、声を影に貸していた人が、息を吸う。
一行目が、出た。
掠れて、細くて、それでも真ん中を通る声だった。村じゅうが、その一行を聴いた。
二行目から、隣の誰かが重なった。三行目は、広場ぜんぶの声になった。
——ふゆの あいだは うたって こらえ。
こらえた冬の、いちばん出口で歌うこの一行は、今日がいちばん似合っていた。
三行で、唄は止まる。……いつもの場所で。
でも今日は、誰もそこで下を向かなかった。止まった唄の続きみたいに、誰かが笑って、鍋のおかわりが回った。
欠けたままで、祝える。……この村は、それを今日、覚えたのだと思う。
歌い終えたアカネさんは、椀の汁を一口すすって、それから火に向かって、深く息を吐いた。十年ぶんの外の空気を、やっと肺の底まで入れた顔だった。
ヨゾラは歌いながら、ずっとアカネさんの横顔を見ていた。
十年、アカネさんの声のない唄を歌ってきた。今日は村ぜんぶと、アカネさんと、歌った。
夜、家に戻った。
祝いの火の匂いが、外套に残っている。ツキヨは遊び疲れて、暖炉の横で丸くなって、もう眠っていた。
ヨゾラが道の書を開いた。今日の一行を、いつもより早く書いた。
『ふゆ、こした。』
三文字と、読点ひとつ。……この帳面は、終わったことしか書かない。だから今日まで、冬のページは白いままだった。
そのときだった。
眠っているツキヨの喉から、小さな音が漏れた。
「……ぅん」
りん、でもない。寝息でもない。声の、かけらだった。
ヨゾラと僕は、同時に振り返って、それから顔を見合わせた。
……この家の返事の音が、ひとつ、増えようとしている。
銀色の毛玉は、何も知らない顔で眠っている。




