第63話 家の中の名前
回復は、指の先から順番に来た。
二日たつと、箸が持てた。椀も持てた。立ち上がると、まだ膝が笑う。
ヨゾラの粥が、今朝から雑炊になった。回復の目盛りは、鍋の中にある。
務めは、朝夕の二回のまま続けている。結び目は太いまま、指で確かめても、編み直しはまだ要らない。声は来ない。……二晩、来ていない。
「減らさないの?」
「もう少し、様子を見てから。……急に緩めて、向こうに勘違いされたくない」
静けさは、まだ新品だ。丁寧に扱う。
昼前、長老の家に人が並んだ。
母さんへの、見舞いの列だった。誰も長居はしない。戸口で頭を下げて、粥の実だの、干した菜だの、卵だのを置いていく。
十年ぶりに帰ってきた人への挨拶が、この村では食べ物の形をしている。
トウヤさんは、研ぎ直した得物を提げて来た。あの晩の曇りは、ぜんぶ落ちました、と報告だけして帰った。イワネさんは何も言わず、薪をひと抱え、戸口に積んで帰った。
言葉の量と、気持ちの量は、この村では比例しない。
「アカネ。……ようもどった」
長老がそう呼ぶのを、僕は初めて聞いた。
アカネ。……あの人の、名前。夕焼けの色の名前だ。
夕焼けの次が夜空で、夜空の次が月夜。……この家の名前は、時間の順に並んでいる。
アカネさんは布団の上に身を起こして、ひとりひとりに頭を下げていた。名前を、ぜんぶ覚えていた。
水汲みの女の人には、腰の具合を訊いた。桶屋の爺さんには、孫の名を挙げて、大きくなったかと訊いた。……十年前で止まっているはずの帳面が、止まっていない。
「……声だけ、ずっと聞いてたから。顔と名前を、いま繋いでるの」
十年ぶんの村が、この人の中では音だけで続いていたのだ。
白のまじった黒髪に、夕焼けの色を薄めたような目。……ヨゾラの深い藍色の目とは、違う色をしている。
目は、父親譲りなのかもしれない。
訊かなかった。訊く順番が、まだ来ていない話だと思う。
見舞いの途中で、アカネさんが僕を手招きした。
「ゆづきさんにも、お礼を——」
村の人たちが、一斉にこちらを見た。……ゆづき、という音に、全員の首が同じ角度で傾いた。
「あの、アカネさん。村では、ルナで通ってます」
言いながら、変な気分だった。隠すためにつけた異名が、いつのまにか、こっちの世界での本名になっている。
「あら」
アカネさんは口に手を当てて、それから、少しだけ笑った。笑うと、目のなくなり方がヨゾラと同じだった。
「……じゃあ、うちの中だけ」
うちの中だけ。
その言い方が、妙に効いた。名前に、住所ができた。
「ルナさん、な」
長老が横から言い直して、見舞いの列は何ごともなく流れていった。……あの人たち、たぶん深く考えていない。技名の長い番人が、名前をもう一個持っていたところで、今さら驚く村ではない。
午後、ツキヨが敷居の内側に入った。
昨日までは外で耳だけ向けていたのに、今日は音もなく入ってきて、アカネさんの布団の足元に、丸くなった。
アカネさんが、足の先でそっと、その背中に触れた。
「……あったかい」
りん、と一回。
「この子も、影を知ってるのね」
問いじゃなかった。同じ場所を知っている者どうしの、確認だった。
アカネさんの手が、銀色の背中をゆっくり撫でる。ツキヨの尾が、布団をぽふ、と一回叩いた。……ご機嫌の音だ。
夕方、ヨゾラが唄をうたった。
務めの唄じゃない。病床のアカネさんに聞かせる、ただの唄だ。小さな声で、一行目、二行目、三行目。
破れ目で、止まる。いつもの場所で。
聴いているアカネさんの顔が、途中から、聴くだけの顔じゃなくなった。
……アカネさんの唇が、動いた。
声にならない形で、三行目の先を、なぞった。
ヨゾラの唄が、止まった。
「……続き、知ってるの」
アカネさんは、すぐには答えなかった。自分の唇に指を当てて、いま自分が何をなぞったのかを、確かめている顔だった。
「……知ってた。ばあちゃんに、習った唄だもの」
それから、静かに言った。
「あの中で、ずっと歌ってたの。この唄を」
影の中で。声を塞がれた場所で。
「口は動かせなくても、頭の中では歌える。……歌ってる間は、呑まれきらずに、いられた」
「……ばあちゃんも、言ってた。うたは、まもり、って」
ヨゾラが小さく言った。祖母の言葉が、また一枚、意味を取り戻した。
唄が続いているあいだ、あれは聴く側になる。
……あの理屈は、影の内側でも同じだったのだ。アカネさんは十年間、自分ひとりの唄で、自分の席を守っていた。
「でもね」
アカネさんの指が、唇から離れた。
「四行目だけ、思い出せない。……何度さらっても、そこだけ霧がかかったみたいに」
「……喰われた?」
「そうかもしれない。あそこだけ、先に持っていかれた気がするの」
「……私も、聞いてる。ちいさいころ。……母さんの声で」
アカネさんの目が、すこしだけ開いた。喰われた場所の写しが、娘の中に残っている。
歌った側からは喰われて、聞いた側にだけ、薄く残っている。……線は、まだ一本、切れていない。
四行目だけが、先に。
破れた紙。三行で止まる唄。半分の言い伝え。……この土地の失くしものの目録に、また同じ形がひとつ増えた。
あれは、四行目を恐れている。
だから先回りして、そこだけ喰った。……そう考えると、順番が全部、繋がってしまう。
破れた紙も。半分の言い伝えも。この土地の失くしものは、失くなったんじゃない。選んで、喰われたのだ。
……部屋の静けさの底が、一段、深くなった。
「思い出したら」
アカネさんが、ヨゾラを見た。
「私が、歌う」
同じ約束を、僕は一度だけ聞いたことがある。……この親子は、誓いの置き方まで同じ形をしている。
それから、少し伸びをするみたいに背筋を立てた。
「歩けるようになったら、家にも戻るわ。……番人がふたりも育った家、見せてもらわなきゃ」
「ん。……ばあちゃんの部屋、あけとく」
帰る場所の予約が、ひとつ増えた。
約束の置き方が、この家はみんな同じだ。先の先に、灯りをひとつ置いておく。
夜、家に戻って、ヨゾラが道の書を開いた。
今日の一行を、いつもより長く考えていた。
『いえのなかは、ユヅキ。』
名前の帳簿に、新しい住所がひとつ増えた。
「……三人目」
書き終えて、ヨゾラが小さく言った。
この名前を呼ぶ人の、数の話だ。ヨゾラと、アカネさんと——足元で丸くなっている、いつか言葉を持つかもしれない、三人目。
数えられる名前というのは、悪くない。
世界中に知られる名前より、ずっといい。
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