第62話 おかえりの練習
揺れている。
背中だ。誰かの広い背中に、僕は担がれている。頬に当たる外套が、夜の匂いをしていた。
「……戻ったか」
低い声。綱の音。村の際を、越えたころだ。
どの家の戸も、開かなかった。閉じた戸の隙間から、灯りだけが細く漏れている。……言い伝えの晩は、夜明けまで明けない。守り方まで、この村は律儀だった。
りん、りん、りん。
遠くで、三回。しらせの数。……帰ってきたよ、の数でもあった。
冷たい鼻先が、頬にひとつ押しつけられて——そこで、途切れた。
次に目を開けたとき、天井は見慣れた板の木目だった。
窓の光が、高い。朝を、だいぶ通り過ぎた明るさだ。
体は鉛で、指の一本から順番にしか動かない。値段の欄には、これが書いてあったのか。
枕元で、りん、と一回。
へんじの数。首だけ回すと、銀色の毛玉が布団のへりに顎を載せて、こちらを見ていた。
「……ただいま」
りん。
もう一回。会話としては、それで十分だ。
昨夜の持ち場を、この子は最後まで務め上げた。……これは、胸を張っている顔だ。動くほうの手で、額の紋を撫でた。形は、昨日の丸のまま。光のほうが、戻ってきている。
戸が開いて、ヨゾラが入ってきた。湯気の立つ椀を持ったまま、少しのあいだ、立ち止まっていた。
「……おはよ」
「おはよう。……どれくらい、寝てた?」
「一晩と、半日」
丸一日には、届かなかった。矢の値段は、覚悟していた相場より、いくらか安かった。
窓の外から、子どもの声がする。桶の音、雪を踏む音。……村の生活音が、ぜんぶ戻っている。
「夜明けと同時にね、村中の戸が、いっせいに開いたって」
一晩ぶんの息を、村ごと吐いた朝だったのだと思う。
粥を挟んで、報告を聞いた。
母さんは、長老の家で眠っている。帰りの雪道は、ヨゾラが背負ったのだと。……背負えてしまうくらい、軽かった、とも。着いてからは一度も目を覚まさない。でも息は、深くなっていっている、と。
祠は、静かだと。
「声は?」
「……来てない。ゆうべから、一度も」
長老は朝からずっと、母さんの枕元にいると。イワネさんは、鐘の綱を古いほうに戻したと。
結び目は、太いまま。朝の祠は、ヨゾラが見てきてくれた。鎖を編めるのは僕だけだから、今日は見るだけ——それで足りるくらいには、太いままだと。破れ目に向かって耳を澄ませても、何も待っていなかったと。
静けさというものを、この冬はじめて、疑わずに聞いた気がする。
夜の長さは、昨日までと同じだ。中身だけが、そっくり入れ替わった。
「トウヤさん、言ってた。……刃は一度も、届いてなかった、って。逸らしてただけだ、って」
「……それを言える人だから、盾が務まったんだ」
それから、ヨゾラは少しだけ黙って、椀の縁を指でなぞった。
「……あのね。雪の上で。母さん、あなたのことも、呼んだ」
「僕?」
「ゆづき、って」
息が、一瞬止まった。
名乗った覚えはない。あの人が影に呑まれたのは十年前で、僕がこの世界に来るより、ずっと前だ。
「……なんで」
「聞こえてた、って。影の中から。……外の声、ぜんぶ」
ぜんぶ。
毎晩の唄も。村の暮らしの音も。坂の途中の呼び声も。……声の晩の、あの「——結月」も。
返せないまま、十年ぶん、聞いていた。
……僕が影に向かって吐いた悪態も、ぜんぶか。歌ってろ、とか。独唱会、とか。
いいところも聞かれていたなら、差し引きで許してほしい。
耳を塞がれていたんじゃない。口だけを、塞がれていた。
……あの言い伝えの、ほんとうの残酷さが、いまごろ喉まで来た。名を呼ぶな。呼ばれた側は、ずっと聞こえているのに。
昼を過ぎて、体が半分だけ言うことを聞くようになった。
ヨゾラの肩を借りて、長老の家まで歩いた。晴れていた。雪の照り返しが、目に痛いくらいだった。
ツキヨは敷居の外で止まって、そこにきちんと座った。耳だけを、部屋の中へ向けている。
長老が僕たちを見て、それから、わしは茶ァ淹れてくる、と言って腰を上げた。……気の利かせ方まで、この人は年季が入っている。
母さんは、囲炉裏のそばの布団で眠っていた。
小さい。昨夜もそう思って、明るい場所で見ると、もっとそうだった。十年ぶんの何かが、この人からごっそり持っていかれている。
ヨゾラが、枕元に座った。
眠っている顔を、長いあいだ、ただ見ていた。ちいさい子に戻ったみたいな座り方で。
それから、布団の上の手に、自分の手をそっと重ねた。
母さんの目が、開いた。
「……よぞら」
十年、声を影に貸していた人の、掠れた声だった。それでも、呼び方は昨夜と同じだった。
「……ん」
十年ぶりの返事が、それだった。この人の「ん」を、僕は何十回と聞いてきたけれど、こんなに長い「ん」は初めてだった。
母さんの手が、ゆっくり持ち上がって、ヨゾラの頬に触れた。
確かめる指だった。夢の中で何度も触れたものが、本物かどうかを確かめる指。
「……おおきく、なった」
「ん」
二回目は、震えていた。
ヨゾラは泣かなかった。泣く代わりに、重ねた手に、おでこを付けた。祠の戸にするのと、同じやり方で。
この人の祈り方は、十年間、ずっとこれだったのだ。
僕は敷居の内側の、いちばん端にいた。……ツキヨと似たような場所を、自然と選んでいた。
母さんの目が、その端の僕を見つけた。
「……ゆづき、さん」
呼ばれ慣れない形の、僕の名前だ。はじめまして、より先に名前で呼ばれるのは、変な感じがする。……悪くない、変さだけれど。
「はい」
「……ずっと、聞いてた。……お礼を、返せないまま」
声が、そこで一度切れた。
「……あとで、ゆっくり。ぜんぶ」
十年ぶんの返事の、順番待ちに入れてもらえたのだと思う。
そこまで言って、目を閉じた。眠りに戻る速さが、そのまま消耗の深さを語っていた。
ヨゾラは、手を重ねたままでいた。
言おうか、言うまいか。口が二回、開きかけて、閉じた。
三回目に、声になった。
「……おかえりの練習、しといたの」
寝ている母さんに向かって。十年ぶんの練習の成果を、一語ずつ置くみたいに。
「おかえり、なさい」
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