第61話 蝕月の魔弾
「聞け、影。月を呑みし者。」
最初のひと言は、思ったより静かに出た。
叫ばなくても、通る。赤い月の下で、僕の声は、僕のものよりわずかに深く響いた。
祠の戸の軋みが、ぴたりと止まった。……こちらを、向いた。
ヨゾラの唄は、一回目の二行目。僕の詠唱は、その背中に乗って歩く。唄が道で、言葉が旅人だ。
「汝の腹の内で、月は、まだ死んでいない。」
戸の隙間から、黒がひと筋、漏れ出した。煙に似て、煙より重い。地を這って、まっすぐこちらへ来る。
トウヤさんが半歩も引かずに、それを受けた。刃が黒を払う。払った先から、刃が黒く曇っていく。
黒の通った跡は、雪から白が抜けていた。色ごと呑む。名前どころか、白まで喰う。
「構わず、続きを!!」
短い声だけが飛んできた。
振り向かない。僕の持ち場は、この十節だ。
「光を喰われ、色を奪われ、夜はひと色の影に沈んだ。」
言葉のとおりの世界が、頭上にあった。
中三の僕が書いた三節目は、今夜のための天気予報だったのだ。
黒は、村のほうへは流れない。……流れられないのだ。遠くに並ぶ灯りの列が、あちら側の岸になっている。言い伝えは、正しく働いていた。
ヨゾラの唄が、二回目に入る。切れ目は、まばたきより短い。
「——されど、見よ。呑まれた月は、赤く燃える。」
影の這う速さが、落ちた。
赤い月を、あれは見上げたのだと思う。呑んだはずのものが、腹の中でまだ燃えている。
呑んだ月に、内側から灼かれる。……そういう晩なのだと、中三の僕が決めたのだ。
「影の中でしか灯らぬ火が、ある。」
開いた書のページが、下から仄かに赤らんだ。最後の一行だけが、白いまま声を待っている。
ここまで、一度もつっかえていない。……もう、恥じていないからだ。
ヨゾラの唄が、三回目に入った。
「それは燠火。返される日を待つ、名前たちの色。」
影の奥で、淡い灯りがいくつも揺れた。ひとつやふたつではない。数えられない数の、小さな火。
呑まれた名前たちだ。……母さんも、あの中にいる。
どの灯りがそうなのかは、わからなかった。わからないから——ぜんぶ、照らす。
「これは、取り立てだ。呑まれしすべての名の、取り立て。」
取り立て、という言葉に、あれは初めて怒ったのだと思う。……図星だからだ。
影が、膨れた。
戸が内側から弾けて、黒が洪水になって溢れた。祠の石を呑み、雪を呑み、こちらへ。
トウヤさんの刃が横に走る。一枚の壁みたいに、黒の先端がまとめて斬り落とされた。
「最後まで!! どうぞ、最後まで!!」
吠えたのは、技名の人だ。今夜は名もない斬撃だけで立っている。
黒の腕が一本、脇をすり抜けて、ヨゾラへ伸びた。
間に合わない——そう見えた。目を閉じたまま、一音も揺らさなかった。
黒の腕は、唄の三歩手前で止まった。……止まって、震えて、引いた。
聴いている。攻めながら、それでもあれは、唄を聴くのをやめられない。
唄は四回目に入った。声がかすれはじめて、それでも一音も落ちない。
「赤き月光よ、一条の矢と成れ。」
赤が、集まった。
月から糸を引くように、僕の目の前で、光が矢の形に編まれていく。細い。月鎖より細くて、月鎖より熱い。
ずっと、ノートの中でだけ飛んでいた矢だ。それが今、僕の目の高さで、静かに燃えている。
トウヤさんが一瞬だけ、矢を振り返った。あの人が敵から目を離したのは、今夜、それが最初で最後だった。
「影を裂くな。影を照らせ。——照らして、残らず返せ。」
矢が、満ちた。切っ先は、祠のいちばん深いところを向いている。
ヨゾラの唄が、四回目の三行目を終える。
……唄が、尽きた。稽古のとおり。四回ぶん、きっかり。
ヨゾラが目を開けて、僕を見た。唄い終えた人の、仕事を渡す顔だった。
風が、止んだ。雪の軋みも、遠い鐘の気配も、僕自身の心音さえ。音という音が、順番に店じまいをしていく。
黒の洪水だけが、まだ目の前にある。それすら、止まって見えた。
世界に、僕の次のひと言だけが残っていた。
赤い月あかりの下で、唇が、五年ぶんの空白の形になる。
怖くは、なかった。この名前は、呼ばれて——取り返して、もらったものだ。
「その名を灯して、撃ち貫く。我が名は——」
「——結月」
白い最後の一行に、声が入った。
矢が、放たれた。
音は、なかった。赤いひと筋が黒の真ん中へ入って——裂かずに、照らした。
黒の中を、光はゆっくり歩いた。急がない。ひとつずつ照らして、ひとつずつ、返していく。
黒の内側が、透けた。洪水の中に、無数の淡い灯が浮かび上がって、いちどだけ、いっせいに明るくなった。
ヨゾラが、灯りの群れへ小さく頭を下げた。……この土地の、返してもらえなかった名前たちに。
その光の中から、人の形が、押し出されるように落ちた。
奪い返した、という手応えではなかった。……返させた。影が、手を開いたのだ。
雪の上に。……小さい。あんな大きな黒の中に、こんな小さな人が閉じ込められていたのか。
駆け寄りたかった。足が、もう言うことを聞かない。
トウヤさんが刃を雪に置いて、走った。……盾役は、受け止める順番も知っている。
ヨゾラの足が、雪を半歩だけ踏んで——止まった。まくった袖のほうを、選んだのだ。
落ちてきたのは、ひとりだけだった。
……ほかの灯りは、返る先を失くしている。名前だけが、あの中で燃えつづけていたのだ。
黒は、悲鳴を上げなかった。
燃え尽きる薪みたいに縮んで、戸の奥へ、深く深く引いていった。祠の戸が、静かに閉じる。
結び目が——目の前で、少しだけ太った。
空を見ると、月の端に白が戻りはじめていた。……世界も、返してもらう順番だった。
勝った、とは思えなかった。
……届いて、いない。あれはまだ、奥にいる。矢は照らしただけで、火種までは消せていない。
そこまで考えたところで、膝から力が抜けた。
色から順に、消えていく。赤い月が、灰色の月になる。
雪が近い。世界が狭い。視界の端で、袖をまくった腕が伸びてくる。
受け止める側は、決めてある——そう言った人の肩に、僕はぜんぶを預けた。
肩は、あたたかかった。冬の夜なのに。
暗くなる耳のいちばん奥で、細い声がひとつ、名前を呼んだ。
——よぞら、と。
……十年ぶんの、呼び声だった。
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