第60話 約束の月
それからの、十三日。
僕はたぶん、一生ぶんまとめて数えた。
紋は、日ごとに薄くなった。月は、日ごとに満ちていった。形は丸く、光は細く。あの子の額の上で、ふたつの逆さまが同時に進んだ。
声は毎晩来た。破れ目の沈黙が、少しずつ長くなった。開いた口が、閉じるのを忘れはじめている。……そんな想像をして、やめた。
唄の稽古は、まばたきの切れ目のまま仕上がった。僕の口なぞりは、最後の一言の手前で止まる癖のまま固まった。
務めは一日二回、一度も欠かさなかった。結び目は細いまま、それでも十三日、持った。
村の人たちは何も訊かなかった。ただ、すれ違いざまに、頼みます、とだけ言う人が増えた。
そして——当日の朝が来た。
長老の家で、六人ぶんの飯が並んだ。五人と、一匹。ツキヨの椀が、いちばん端で湯気を立てていた。
誰も、たいしたことは言わなかった。トウヤさんが汁を二杯おかわりして、イワネさんは一杯で箸を置いて、長老が「ゆっくり食え」とだけ言った。
ツキヨの椀には、長老が黙って多めによそった。それだけの朝めしだった。
……それだけのことが、いちばんの支度だった。
昼はそれぞれの持ち場の、最終確認で暮れた。
僕は禁忌の書を油布で包んだ。白い一行のページに、組紐の端切れを挟む。今夜、この白に声を入れる。
ヨゾラは唄を、口の中で四回さらった。
僕は月鎖の祝詞を、同じやり方で一度だけ。鎖を編めるのは、僕だけだ。
「今夜は、細くしか編めない。……それでも、編めるようにしておく」
イワネさんの鐘が、試しにひとつ、遠くで鳴った。よく通る。
髪には、三色の組紐。外套の前を、いつもよりひとつ多く留めた。
日が、落ちた。
いつもなら、戸を閉める時間だ。今夜は、戸を開けて出る。
村の家々に、灯りが一軒ずつ点っていく。どの戸も固く閉まって、どの窓も明るい。言い伝えどおりの、灯りを絶やさない晩。
長老だけが、家の前に立っていた。何も言わず、僕たちに深く頭を下げて、それから戸を閉めた。
戸の閉まる音が、村じゅうで順番に鳴った。あの音の数だけ、守るものがある。
今夜、村は歌わない。この冬張りつづけた声の網を、いちばん危ない晩にたたむ。
……そのぶんの唄は、ぜんぶこの人が背負っていく。
村の入り口まで、ツキヨが送ってきた。
境の杭のところで、ぴたりと止まる。そこから先は、僕たちの持ち場。ここから後ろが、あの子の持ち場。
ヨゾラが屈んで、あの子の額に自分の額を当てた。
「今夜は、影にいない。……でも、ひとりにしない。持ち場で、つながってる」
りん、と一回。
見送りの音は、それだけだった。振り返ると、銀色の姿が杭の横にきちんと座って、こちらを見ていた。
次に振り返ったときには、もう村のほうへ駆けていた。……持ち場へ。
「……あべこべの晩」
ヨゾラが小さく言った。夜に、村を出る。……今度のあべこべは、笑っていなかった。
村の際で、イワネさんが待っていた。鐘の綱を、手に一度巻いて見せる。
「ここまでだ。……行け」
「お願いします」
新しい綱は、暗がりでも白かった。
森に入る。
同じ道のはずなのに、木の数が増えている。闇のぶんだけ、森が太る。トウヤさんが先を歩き、その背中の広さだけが昼と変わらない。
初めて見る夜の祠は、昼より小さく見えた。……祠が縮んだのではなく、夜が大きいのだと思う。
祠の前に着いてすぐ、月が森の上に出た。
満月だ。まん丸の、満ちきった月。……そして、その少し下に、あの星たちがいた。
三つ並んで、先の曲がった、鎌の形。
ヨゾラが空を見上げて、唄の一行目を、声にしないで口だけ動かした。
「……ほんとに、いた」
かまのほし。唄のいちばん初めが、空に実物で掛かっている。この唄は、この空の下で生まれたのだ。
結び目は今朝より、さらに細かった。祠の戸は静かだった。……静かすぎた。
トウヤさんが僕たちの前に立ち、得物を抜いて、切っ先を影のほうへ向けた。白い息が、ひとつ。
「持ち場に、つきました」
背中の遠くで、鐘は鳴らない。村の際は無事、ということだ。
あとは、月を待つ。
欠けはじめは、あっけなかった。
満月の下の端が、すっと翳った。まるい光の縁を、影が静かに齧りはじめる。
今度こそ、本物の欠けはじめだ。暦の欠け方じゃない。影の欠け方。
トウヤさんの切っ先が、わずかに下がって、また戻った。あの人でも、空に見とれる夜なのだ。
振り返ると、木々の隙間の遠くに、村の灯りが並んでいた。ひとつも欠けずに、ちゃんと並んでいた。
月鎖のことを思った。月の光で編んだ鎖は、今夜、どこまで細るのだろう。
祠の戸が、みし、と鳴った。
結び目が、きゅう、と縮んだ。
……起きている。中のものが、月と一緒に、目を覚ましていく。
「ヨゾラ」
「ん」
「……撃ったあとの僕がどうなるかは、書いてなかった」
言っておくべきだと思った。あの書は矢の作り方しか教えてくれない。値段の欄が、白いままなのだ。
ヨゾラは一拍だけ、黙った。
「……受け止める側は、決めてある」
それだけ言って、前を向いた。それ以上は、聞けなかった。
聞かなくても、腕まくりの意味くらいはわかる。冬の夜に、あの人は袖を上げていた。
月が、半分になった。
影に呑まれた側が、うっすらと赤い。錆びた赤。燠火の赤。……あのころ僕がノートに書いた色が、空で本物になっていく。
「……見られたね」
ヨゾラが、一瞬だけ僕を見た。
「ん。……でも、ゆっくり見るのは、今度」
約束は次の月蝕に、繰り越しになった。それでいい。繰り越せる先があるように、今夜勝つ。
月が、呑まれきった。
空に、赤い月だけが残った。世界がひと色の影に沈んで、その真ん中で、呑まれた月が燃えている。
鎌の星は、赤い月の下でまだ光っていた。月が消えても、星は喰われないのだ。
祠の戸が、内側から、どん、と鳴った。
ヨゾラが息を吸って——唄が、始まった。
歌声は震えていなかった。まっすぐに、祠へ向かった。
……戸の音が、止んだ。
聴いている。稽古のとおりだ。唄が続いているあいだ、あれは聴く側になる。
四行目のない唄。一回目。
僕は書を開いた。組紐の栞が、あのページをすぐに連れてくる。
白い一行が、赤い月あかりの下で待っている。
大きく、息を吸う。
五年ぶんの息だった。
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