第59話 それぞれの持ち場
月のない晩が、二晩つづいた。
新月のあいだ、ツキヨの額から紋は消える。それ自体は、毎月のことだ。空に月がないのだから、写すものもない。
わかっていても、今月は落ち着かなかった。紋が消えている二晩は、あの薄れを見張れない。二晩とも、僕は何度もあの子の額を見に行って、そのたびに何もない銀色の毛を撫でて戻った。
二晩目の夜中、廊下でヨゾラと鉢合わせた。同じことを考える人が、同じ屋根の下にいる。……お互い、何も言わずに部屋へ戻った。
月のない晩の声は、心なしか近かった。……あれの晩が、近づいている。
今朝、月が戻った。
といっても、空にはまだ何もない。新月明けの細い月が立つのは、日暮れの西の空だ。……報せたのは、あの子の額のほうだった。
爪の先みたいな細い形が、銀の毛の下に戻っている。空より先に、額が月を写していた。
そして、戻ってきた紋は——向こうが透けそうなほど、薄いままだった。
読みが外れるなら、ここで外れるはずだった。月が戻って、紋がはっきり戻るなら、影はもう月を狙っていない。
「……決まったね」
ヨゾラが言って、僕は頷いた。
次の満ちた月。あと、十四日。
朝の務めの結び目は、今日も細かった。細いまま、持ちこたえている。あと十四日ぶん、この細さと付き合う。
朝のうちに、長老の家へ行った。トウヤさんと、イワネさんも呼んでもらった。
囲炉裏を五人で囲む。番人の家の外へ、この話がそろって出るのは初めてだった。
僕は日取りと、矢の話をした。ヨゾラが隣で、唄は私、と自分の役を先に名乗った。撃てる晩は一度きりで、詠唱は長い。唱え切るまで、あれの前に立っていなければならないこと。
「日が落ちる前に村へ戻る。この冬いちばん守ってきたことを、あの晩だけ、破ります」
長老は灰を見たまま、首を振った。
「破るんやない。……あの晩だけ、番人の持ち場が夜へ伸びるんや」
持ち場が、夜へ伸びる。……その言い方を、僕は胸の中で二度なぞった。
「盾が、要りますね」
トウヤさんが、静かに言った。
「それは、私の得物の仕事です」
それから、わずかに声の温度を上げた。
「名のある技と並んで戦える夜が来るとは、思いませんでした」
志願は、迷いのない声だった。断る理屈を、僕は持っていなかった。……正直に言えば、断りたくもなかった。
「イワネさんは」
「……外か」
短い返事が先に来た。
「今度の外は、祠の前なんです。イワネさんの外は——村の際を、お願いします。何かあれば、鐘を」
「おう」
それで話が済む人だった。帰りぎわ、鐘の綱を今日から新しく替えておく、とだけ言い足した。
備えの言葉が、いちばん短い人でもある。鐘を決めた日からずっと、この人の持ち場は変わらない。境目に立つのが、いちばん得意な人だ。
長老は最後まで灰を見ていて、それから、ひとつだけ言った。
「……全員、当日の朝めしはうちで食え」
大ごとの前に、まず飯。この村の年寄りの采配は、そういう順番でできている。
それから灰に火箸を立てて、付け足した。
「生きて帰って、あしたの朝めしも食え」
返事の代わりに、四人ぶんの頷きが揃った。
家に帰って、昼になった。
僕とヨゾラは、ツキヨの前に並んで座った。あらたまって座ると、あの子は耳を後ろに倒す。叱られる前の顔だ。
「叱らないよ。……お願いがある」
あの晩の持ち場の話をした。ヨゾラは夜の外に出る。いつもなら、影の中のきみも、一緒に夜へ出ることになる。
でも、あの晩の月は喰われる。月の獣が月をなくす晩だ。きみの灯りだって、あの晩は細くなるかもしれない。
「だから、きみの持ち場は村。長老のそばで、耳と鈴の係」
りん、と一回。……りん、りん、と二回。
抗議の二回は、初めて聞いた。
あの子は首を回して、窓の外を見た。月の昇る方角だ。それから僕たちに向き直った。行きたい場所と頼まれた場所のあいだで、耳が迷っている。
「置いていくんじゃない。持ち場を、頼んでる」
ヨゾラが屈んで、あの子と目の高さを合わせた。
「……お願い。私の代わりに、村を」
長い、長い間があった。
ツキヨはやがて、ヨゾラの膝に頭をこすりつけて、それから僕の膝にも、こすりつけた。順番に、一回ずつ。
承知の作法も、この子は公平にできている。
夕方まで、鈴の稽古をした。
何かあったら、三回。イワネさんの鐘と、同じ数だ。
「一回は、へんじ。三回は、しらせ」
ヨゾラが決めて、紙の端に書き足した。合図は少ないほど、間違えない。
りん、りん、りん。
あの子は一度で覚えた。二度目からは、こちらが指を三本立てるだけで鳴らしてみせる。
耳が、誇らしげに立っていた。
夕方の祠は、いつもの見るだけで済ませた。
三回の合図は今夜から、あの子の枕元にある。
夜は唄の稽古だった。
こちらは、鈴ほど簡単じゃない。
詠唱は長い。唱え切るまでのあいだ、あれの気をこちらへ向けさせないものが要る。……そして、あれが聴くものを、僕たちはひとつだけ知っている。
唄だ。
切れ目に、声が来る。裏を返せば——唄が続いているあいだ、あれは聴いている。
「私が歌ってる間は、あれは、聴く側」
ヨゾラの整理は、いつも短くて正しい。
問題は長さだった。僕は詠唱を、声に出さずに口だけ動かして、最初から最後までなぞる。ヨゾラが隣で唄いながら、指を折る。
口だけでなぞるときも、最後の一言の手前では止める。癖にしておく。本番の口が間違えないように。
三行を、四回。それで、僕の口が止まるまで足りた。
四行目のない唄を、四回。……欠けた唄で、時間を稼ぐ。歌えない一行のぶんまで、あの人は息を詰めることになる。
「四回ぶん。……切れ目は、短く」
切れ目を消すことはできない。息は吸うものだ。でも、短くはできる。ヨゾラは同じ三行を、息の詰め方だけ変えて、何度も歌った。しまいには、切れ目がまばたきくらいの長さになった。
毎晩のあの唄が、今夜は稽古の唄になっている。
窓の外の、本物の唄の切れ目に、声が三行、落ちて消えた。
四行目の破れ目が、今夜は長く開いていた気がする。……向こうも、数えているのかもしれない。
答えない。手も止めない。……こっちは忙しいんだ。おまえの相手をしている暇は、もうない。
寝る前に、ヨゾラが壁の紙の隣へ、新しい紙を貼った。
守り方の紙の隣に、持ち場の紙。壁の上で、二枚が並んだ。
『ほこら、ルナ。うた、ヨゾラ。たて、トウヤ。かね、イワネ。むら、ちょうろう。すず、ツキヨ。』
六つの持ち場と、六つの名前が並んでいる。
ほこら、の三文字の隣に自分の名前があるのが、まだ少しだけ不思議だった。
いちばん最後の名前を、ヨゾラはいちばん丁寧に書いた。




