第58話 月の赤い晩
長老は話を聞き終えても、何も言わない。
火箸で灰をならして、それから、ならした灰をまた崩した。同じことを二度やる人ではない。
「……矢が、一本ある」
言葉を選ぶのに、それだけの間が要った。
「はい。ただし、撃てる晩が決まっています」
書きかけだったページのことは、話さなかった。仕上げた、とだけ言った。
同じ説明を、もう一度した。月が影に呑まれて、赤くなる晩。そういう夜にだけ、放てる矢だと。
長老の手から、火箸が落ちた。
「……月の、赤い晩」
声がいつもの倍ほど、低い。
「知ってるんですか」
「知っとる。……村の者は、みんな知っとる」
「もっとも、意味はもう、誰も知らん」
月が赤くなる晩には、外に出るな。灯りを絶やすな。そして、名を呼ぶな。
三つで、ひとそろい。祖父から聞き、その祖父もまた聞いた。理由だけが、どこかで抜け落ちている。
「……聞いたことは、ある。ばあちゃんに。……名前は、初めて」
三つの言いつけは祖母の膝で聞いた。月の赤い晩という呼び名は、初めてなのだと。
「……うちの紙と、同じ形」
壁に貼った紙と、よく似ている。守り方だけが残って、なぜかが消えている。
この村の言い伝えは、どれも同じ壊れ方をする。
「その晩に、何かが起きるんですか」
「起きた、とは伝わっとらん。……ただ」
長老は言葉を切った。
「昔の者は、その晩を、鎌の晩と呼んどった」
僕の背中が、すっと冷えた。
冬の鎌——ここの古い名前だ。祠の森ごと、この土地をそう呼んだ。
言いかけた僕より先に、長老の手が止まった。
「……かまの、ほし」
低い声が、自分の口から出た言葉を、確かめるように繰り返す。
「唄の頭や。……わしはあれを、ずっと星の名やと思うて調べとった」
土地の古い名前。唄のいちばん初め。そして、月の赤い晩の呼び名。
別々の場所にしまわれていた三つの鎌が、いま、囲炉裏の上でひとつに並んだ。
「……偶然や、ないな」
長老が言った。僕が言おうとした言葉だった。
「なんで、鎌なんですか」
「知らん」
「わしが聞いたときには、もう半分だけの話やった。鎌の名は残って、鎌が何を刈るのかは、残っとらん」
半分だけの話。破れた紙に、三行で止まる唄。
この土地は大事なところを、いつも同じやり方で失くしている。
「長老。その晩、村はどうしてきたんですか」
「戸を閉めて、火を焚いて、静かに過ごす。……声も、出さん」
名を呼ぶな、がいちばん奥の禁で、ほかの声もまとめて仕舞う。そういう作法なのだと思う。
「今度は、どうします」
長老はしばらく灰を見ていた。
「決めるのは、番人や」
僕とヨゾラの顔を、順番に見た。
「わしは、村の戸締まりだけやる。……あんたらは、外の仕事をやりなさい」
覚悟を測る色は、なかった。ただ、任せる、と言っていた。
「……唄は」
ヨゾラが訊いた。毎晩の唄は、この冬に始めたばかりのものだ。昔の村は、夜に歌っていない。
「止める。あの晩だけ、昔のやり方に合わせる」
長老の返事は、早かった。
張ったばかりの網を、いちばん危ない晩にたたむ。……嫌な形だけれど、言い伝えの側に理があるのだろう。
帰り道で、ずっと考えていた。
名を呼ぶなという晩に、僕たちは名前を呼ぶつもりでいる。禁じられた作法で、禁じられた晩に、撃つ。
……いかにも、僕の書きそうなことだった。
中三の僕は、この世界の言い伝えを知らない。知らずに、掟をまたぐ形の魔弾を書いていた。
……そろそろ、偶然という言葉で片づけるのをやめたほうがいい。
その日の午後、ツキヨの様子が変わった。
昼寝から起きて、影に潜らずに、日の高いうちからずっと外を見ている。
「どうした?」
返事はりんと、一回だけ。近づいて、気づいた。額の紋が、いつもより薄い。
銀の毛の下で、細い月の形をした紋が、擦れた墨みたいに滲んでいる。
この子の紋は、空の月と同じ形をしている。細い月の晩は細く、満月の晩は丸く。
薄くなったのを見るのは、初めてだった。
「……ヨゾラ、これ」
ヨゾラが屈んで、触れるか触れないかの高さで毛の上をなぞった。
「……前は?」
「こんなふうにはなってなかった。形は、はっきりしてた」
ツキヨはじっとしていた。痛がってはいない。
ただ、耳がまた、空を向いた。
紋が薄れるということは、月に何かが起きるということだ。この子は暦を持たないかわりに、額で月を写している。
形は、暦のとおりだ。細って、じきにいちど消える月。
……薄れているのは、形じゃなくて光のほうだった。
影が、もう月に手を伸ばしはじめている。
月蝕は、満ちた月の晩にしか来ない。でも、どの満ちた月に来るかまでは、選べない。
——昨日は、そこで止まっていた。
今日、この子の額が動いた。遠い先のことに、体は騒がない。近いのだ。
なら、次の満ちた月しかない。
今夜の細い月から、数えられる。消えるまで三日か四日。満ちるまで、そこから十四、五日。
……二十日、足らず。
「……きのう、わからない、って」
ヨゾラが、僕の指折りを見ていた。
「うん。……この子が、教えてくれた」
鐘を三つ鳴らす代わりに、額の紋を薄くして。
「ありがとう」
僕は手のひらを、あの子の額に当てた。
りん、と一回鳴って、ツキヨは僕の手に頭を押しつけた。
二十日。……結び目と、僕らの我慢比べになる。
夜、唄が始まった。
切れ目に、声が来た。
昨日も来た。今夜も来た。……焦らす時期は、もう終わったのだ。
一行目、二行目、三行目。そして破れ目で、止まる。
僕たちは答えなかった。ヨゾラの手元は、縫い目ひとつ乱れない。
ただ、止まったあとの静けさが、昨日より長かった。
待たれている、と感じた。返事のない相手に、それでも通いつづける声。
こちらの心が折れるのを、あれはまだ待っている。
……待たせておけばいい。こっちには、日付のある予定がある。
寝る前、ヨゾラが道の書を開いた。
『かまのばん。つきが あかくなる。』
言い伝えを、記録の側に移す一行だ。
書き終えてから、ヨゾラがふと顔を上げた。
「……えくりぷす、って」
「ん?」
「月が消える夜。……今度あったら、一緒に見るって、言った」
忘れていたわけじゃない。まだ何も始まっていなかったころの、先の先の約束だ。
それが今、日付を持って近づいている。
「見られるよ。……ただ、思ってたのと、だいぶ違う晩になる」
「ん。……でも、一緒」
そこだけは、約束のとおりだった。
「声を出さない晩なのに」
「僕は、いちばん長い言葉を唱えるけど」
「ん。……ぜんぶ、あべこべ」
言われてみれば、そうだった。
夜に出るなという晩に、外へ出る。名を呼ぶなという晩に、名前を呼ぶ。
村の掟を、ぜんぶ裏返した先に、母さんがいる。
「……こわい?」
「ううん」
嘘じゃなかった。掟を破る種類の怖さなら、五年前から慣れている。
こわいのは、そっちじゃなかった。
あの晩、この人の隣にいるのが僕でよかったと——最後にちゃんと、思ってもらえるかどうかだ。
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