第57話 最後の一行《なまえのながさ》
朝から、雪がやんでいた。
屋根の雪がゆるんで落ちる音が、ときどき、どこかで鳴る。冬がひとつ寝返りを打ったような、そんな日だった。
務めは朝いちばんに済ませてある。結び目は今日も細くて、今日も持ちこたえた。
ページは、最終行を残して埋まっている。昨日の日暮れまでに、そこまで書いた。
今日は書かずに、確かめることにした。読めない相棒と、読める僕とで。
「……ここ」
ヨゾラの指が、白い場所の手前で止まる。昨日と同じ止め方で、昨日と違うことを言った。
「みじかい」
「……ん?」
「白いところ。……一行ぶんも、ない」
言われて、僕は空白を測り直した。
行の階段は長短の波を作りながら、下りてくる。この人が昨日、揃え直させた波だ。最後の段だけが——たしかに、短い。
文を入れる長さじゃない。二文字か、三文字。それくらいの、小さな白だった。
二文字。……心当たりが、喉の奥で鳴った。まさか、と思う。まさか、のほうが正しい気も、もうしていた。
「文じゃ、ない」
白の幅に手のひらをかざして、ヨゾラが言った。読めない人には、読めない人の測り方がある。
「……名前の、長さ」
僕は前のページを繰った。魔弾の章の、他の技たち。
炎の名、氷の名、雷の名。中二の武器庫が、恥ずかしい順にずらりと並ぶ。
名乗りで締まる詠唱が、いくつもあった。
——我が名は、ルナ・エクリプス。
二つ名で足りる矢は、二つ名で締めてある。恥ずかしさで目が滑るけれど、そこだけは五年間、一度もぶれていない。
この一枚だけが、そこを白くしている。
「……なんで、これだけ」
声に出してから、答えを探して欄外を読んだ。条件書きの続きに、中三の僕は理由まで彫っていた。
意味だけ訳すと、こうなる。
名は、灯り。借り物の灯りは、影の中で消える。
「……きびしい」
「昔の僕は、自分に厳しかったんだ。……他人には、もっと厳しかったけど」
「……異名じゃ、だめってこと」
あのころの僕は、ルナ・エクリプスと書けばよかった。書けたはずだった。……書かなかった。
この魔弾だけは、本当の名前でしか締められない形に、自分で作ってあったのだ。
そして、あのころの僕は——その一行に、自分の名前を置けなかった。
現実の僕は、中二を隠して生きていた。教室では結月で、ノートの中でだけ、ルナ・エクリプスだった。
あの一行に本名を書くということは、二つの世界を繋ぐということだ。この全部を、本気だと認めるということだ。
中三の僕は、そこまでは引き受けられなかった。……いちばん嘘のない一行だけが、書けなかった。
自分で課した掟に、自分だけが落第したのだ。
この世界に来た日、名前を聞かれて——結月、と言いかけて、飲み込んだ。あの瞬間、僕は名乗る側を入れ替えた。結月をしまって、ルナを表に。封印は、あのとき掛かった。
それでも一度だけ、緩んだ晩がある。熱で寝込んだ夜、僕は——ゆづ、と。途中まで、口にしていたらしい。
この人はそれを拾って、次の朝、約束をくれた。呼ばない。あなたがいいって言うまで。……指切りみたいに、固い声で。
そして祠の前で、いい、と僕が叫んだ日から——この名前は、呼ばれるものに戻った。
意識のない口が、途中まで名乗っていた。……封印は、名前より浅いところまでしか、届いていなかった。
「……足りなかったの、それ」
ヨゾラが、白い場所を見たまま言った。
「言葉じゃ、なかった」
「うん。……言葉の在庫の、問題じゃなかった」
五年間、決め台詞ばかり増やし続けて、いちばん短い一行だけが書けなかった。
笑い話みたいで、笑えなかった。
欄外にはもうひとつ、大事なことが書いてあった。
この魔弾は、月蝕の晩にのみ、撃てる。
影が月を呑む夜——月は、影の内側にいる。内側からしか、この矢は放てない。
「……内側から」
ヨゾラが小さく、繰り返した。
内側にいるのは、月だけじゃない。
口には出さなかった。出さなくても、二人とも同じ人のことを考えているのが、息でわかった。
「月蝕って、いつ来るの」
「満ちた月の晩にしか、来ない。……でも、どの満ちた月に来るかは、選べないんだ。僕の世界でも、数年にいちどの夜だった」
待つしかないものが、また増えた。
ただ、今度のは怖い待ち時間じゃない。矢を放てる夜を、待つ。待ち方の名前が、変わった。
「ヨゾラ。……入れる名前なら、もう持ってる」
白い場所の上に、触れない高さで、指をかざした。
あのころの僕に足りなかったものを、僕はいま、呼ばれて知っている。
坂の途中で。声の晩に。仲直りの夜に。
この人が呼ぶたびに、あの名前は封印から一文字ずつ、帰ってきていた。
「——結月」
白い場所を見たまま、ヨゾラがその名を、そっと置くみたいに言った。
言われてみれば——あの二文字は、あの白にちょうど収まる大きさをしていた。
「うん。……君が取り返してくれた名前で、締める」
「……私の呼んだ名前が」
「矢になる」
「……じゃあ、書く?」
「書かない」
即答になった。自分でも意外なくらい、迷いがなかった。
「名前は、最後の晩に——声で入れる」
紙に置くのではなくて、灯す。欄外の言い方を借りるなら、そういうことになる。
完成品を抱えて月蝕を待つより、そのほうが安全でもある。言い切れば出るものの最後の一言は、撃つ瞬間まで、僕の口の中にしまっておく。
ヨゾラはしばらく黙って、それから、少しだけ笑った。
泣くのと笑うのの、ちょうど真ん中の顔だった。
夜、村の唄はいつもの数だけ灯って、いつもの順で渡っていった。村はまだ、何も知らない。
その切れ目に、三晩ぶりの声が来た。
一行目、二行目、三行目。破れ目で、止まる。
静寂が、部屋の空気を薄くする。……でも、今夜の僕たちは昨日までと違った。
ヨゾラの手元で、針は止まらなかった。繕い物の縫い目が、声のあいだも同じ速さで進んでいく。
顔を見合わせて、頷く。それだけだった。答えない。慌てない。
こっちの矢は、もう半分できている。
歌ってろ、と僕は口の中だけで言った。おまえの独唱会は、月が赤くなる晩までだ。
寝る前、ツキヨが東の窓辺で長いこと、外を見上げていた。
月はまだ、昇らない時間だ。いまの月は細って、夜のいちばん深いところでしか出てこない。
それでもあの子の鼻先は、月の昇るあたりへ、まっすぐ向いていた。
「……どうかした?」
返事はりんと、一回だけ。それきり、また同じ場所を見る。
耳が、森ではなく空に向いている。この子の耳の向きは、いつも僕たちより先に正しい。
あの子が何を聞いているのか、僕にはまだわからなかった。
明日、長老に報せることを決めた。矢の話と、月蝕待ちの話。備えは、待つことの別の名前だ。
白い場所は、白いままだ。……でもあれはもう、ただの空白じゃない。名前を待っている、席だ。
道の書に、ヨゾラが一行。
『なまえは、もう ある。』
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