第56話 蝕月開帳《かきかけのいちまい》
机の上で、『禁忌の書』が待っている。
昨夜のうちに出しておいた。朝になって気が変わらないように、逃げ道を先に塞いでおいたのだ。
気持ちは変わらなかった。窓の外は晴れで、雪の照り返しが天井まで明るい。
後ろめたいことを始める朝ではない、と空が言ってくれている気がした。
朝ごはんのあいだ、湯気ごしではなく、普通に目が合った。仲直りというのは、そういう小さいところで確かめるものだ。
「……結月」
ヨゾラが向かいに座って、背筋を伸ばした。
「聞いても、いい?」
いつかの夜、この人は僕のノートを全部見た。全部見て、真名の黒塗りには「聞かない」と約束して、それから——途中のページには、何も聞かなかった。
どうして聞かなかったのか、ずっと不思議だった。
「……途中のものは、続きができてから聞くもの」
先回りして、ヨゾラが言った。
道の書を書く人の理屈だった。記録は、終わってから読む。未完成の言葉を先に覗くのは、書いている人に失礼なのだと。
あの夜、この人は全部を見て、「——全部、綺麗だった」と言った。綺麗だと言ったものの続きを、聞かずに待てる人が向かいにいる。
……この人にだけは、続きを見せられると思った。
務めをいつもどおりに済ませて、戻ってから、僕はページを開いた。
目当てのページは、後ろのほうにある。最終章の、少し手前だ。
繰っていく指の先で、ヨゾラが一度だけ目を伏せた。この本のいちばん奥に、黒塗りの一枚があることを、この人は知っている。
「そこは、まだ」
「ん。……それは、聞かない約束」
約束は生きている。生きているまま、目当ての一枚で手が止まった。
魔弾の章の、最後の一枚。
書きかけの、蝕月のページだ。
中三の僕の字は、今の僕より丁寧だった。一画ずつ、彫るみたいに書いてある。それが途中で、ふつりと途切れている。
「……なんて、書いてあるの」
ヨゾラにこの字は読めない。僕の世界の字だからだ。
だから僕は意味だけを、訳して聞かせた。原文は口にしない。
詠唱は、言い切れば出る。未完成なら、出ないはずだ。……はずだ、を家の中で確かめる気はない。
影に呑まれた月の話だ、と僕は言った。
月蝕の晩、月は影に喰われる。真っ黒に消える——はずが、消えない。赤く、燃えるように照り続ける。
影の中にいながら、影に呑まれない光。
「……月鎖と、あべこべ」
ヨゾラが先に、それを言った。
そのとおりだった。月鎖は月の光で編んだ、封じの鎖。こちらは影に呑まれてなお照る、月そのもの。
あのころの僕は、月鎖をまだ知らない。祠も、名喰いも、この世界も知らない。
知らないで、対になるものを書いていた。
……偶然だと思う。思うけれど、背中のあたりが少し冷えた。
「……前のあなたが」
ヨゾラがページの継ぎ目を見て、言った。
「今のあなたに、宿題を残してた」
宿題。その言い方が、いちばん正しい気がした。
「これを、書き上げる」
宣言してから、僕は炭を取った。
続きの言葉は、書くそばから浮かんだ。五年ぶんの在庫は、今日も働きが早い。
問題はひとつ、声に出して確かめられないことだった。
祝詞には、毎朝という稽古場がある。唱えるたびに少しずつ直して、今の形になった。
こっちに、稽古場はない。言い切れば出るし、出たらそれは、試しじゃなくて本番だ。だから全部、頭の中と紙の上だけでやる。火薬を量るときの手つきに、字を書く作業が似てくる。
ヨゾラは隣で、ずっと紙を見ていた。
祝詞のときは聞く係で、今日は見る係だった。読めない字の並びを、形と勢いだけで追っている。
「……そこ」
時々、横から指が入った。
「前の行と、息が違う」
読めないのに、わかるらしい。唄う人は、言葉を音の形で覚える。息の切れ目が揃っていないと、並びが濁って見えるのだと、ヨゾラは言った。
直すと、たしかに揃った。
もう一箇所は、行の長さだった。「……ここだけ、階段が急」。長い行の次に短い行が来ると、唄なら息が余るのだという。
読めない人が、いちばんいい読み手だった。
昼を回るころ、足元で、りん、と鳴った。
ツキヨが机の縁に前足をかけて、紙を覗き込んでいる。銀の鼻先がいまにも、紙に届きそうだ。
「だめだよ。これは点を打つやつじゃない」
書き初めの前科がある。あの子は不満そうに、りん、と鳴いて、ヨゾラの影へ戻っていった。
鼻の先に、炭の粉がうっすら黒くついていた。
夕方の務めは、見るだけで済ませた。結び目は細いなりに、今日も持ちこたえていた。
戻ってからも、机に向かった。日が落ちるころには、ページはほとんど埋まっていた。
中三の字と、今日の字が、途中の一行で継ぎ目を作っている。字は今のほうが下手で、迷いは今のほうが少ない。
残ったのは、最後の一行だけだった。
そこで、手が止まった。
締めの一行——言葉なら、いくらでもある。五年間、決め台詞だけを考えて生きてきたような人間だ。
書いては、線で潰した。書いては、潰した。
どれも違った。紙の上に置いた瞬間に、借り物みたいな顔をする。
「……どうしたの」
「埋まらない。ここだけ」
言ってから、思い出した。
あのときも、ここで止まったのだ。
最後の一行が書けなくて、書けないまま卒業の日が来て、書けないまま、この世界に来た。
あのころの僕に足りなかったものが、何なのか。それが今夜も、まだ言葉にならない。
夜になって、唄が始まった。
切れ目を、四つ数えた。声は、今夜も来なかった。
これで二晩、続けて来ない。待たされる耳が、少しずつ向こうの味方になっていく。
寝る前に、もう一度ページを開いた。
埋まった行が並んで、最後の一行だけが白い。
「……ここに、何が入るの」
ヨゾラは白い場所をなぞらずに、その少し手前で止めた。書きかけに触れない人の、指の止め方だった。
「……白いところも、きれい」
ぽつりと、ヨゾラが言った。いつかの夜と同じ言葉を、未完成の場所にまで使う人だった。
「わからない。……でも」
あのころのこれは、ただの白紙だった。今夜のこれは、待っている白紙に見える。
「埋まる気がする。今の僕なら」
言葉の在庫じゃないのかもしれない、とは、まだ言わなかった。
確かめてから言うのが、番人の作法だからだ。
ページの上で、最後の一行だけが、白いまま待っている。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白かったら ↓の☆☆☆☆☆ をポチッと評価&ブクマしていただけると、とても励みになります(^^)
☆⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️☆




