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『封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史』  作者: 鏡花
越冬編

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第55話 なおした

 喧嘩の続きは、朝の食卓に置いてあった。


 言葉の数が足りない。塩、取って。ん。……それで会話が終わる朝を、僕は初めて知った。


 怒っているのとは、少し違う。どちらも謝りたくて、どちらも謝り方の在庫が切れている。そういう朝だった。


 粥(かゆ)の湯気だけが、昨日と変わらない高さで立っていた。湯気ごしなら目が合わせられる、ということを僕は今朝知った。


 務めは二人で行った。


 祝詞(のりと)は通ったし、鎖も応えた。結び目は今朝も痩せていて、そこだけは相変わらず悪い。


 務めのあいだだけ、僕たちは普段の二人に戻れた。仕事というのは、こういうときのためにあるのかもしれない。


 帰り道はまた、無言に戻った。


 雪の上に、二人ぶんの足音だけが続く。間に、りん、と鈴がひとつ挟まった。


 ツキヨが影から顔を出して、僕を見て、ヨゾラを見て、また僕を見た。


 耳が二本、困っている。


 子どもの前で続けていい喧嘩と、そうでない喧嘩がある。……たぶん、どっちもそうでないほうだ。


 ツキヨはそのあと、僕の膝とヨゾラの膝に、順番に頭を寄せて回った。仲裁のつもりらしい。りん、と一回ずつ。


 昼、僕は禁忌の書を開いた。


 蝕月(しょくげつ)のページ——書きかけの、あの一枚だ。開いて、しばらく眺めて、閉じた。


 まだ、開くだけだ。でも昨日までと違って、閉じるときに、指が名残を惜しんだ。


 ヨゾラは窓辺で繕い物をしていた。一昨日の夜に落として、昨日は一針も進まなかったやつだ。


 今日は針が動いている。ゆっくりだけど、確かに動いている。


 夕方の務めも、見るだけで済ませた。


 結び目は細いままで、それでも今日のぶんは持ちこたえている。


 帰り道で、ヨゾラが雪に足を取られた。


 僕の手が出て、届く前に、この人は自分で立て直した。出しかけた手が、行き場をなくして戻る。


 ……昨日までなら、掴んでいた。きっと、お互いに。


 手と手のあいだの三十センチが、こんなに遠い日もある。距離というのは、測るたびに長さの変わるものらしい。


 夜になって、唄が始まった。


 僕たちは暖炉のそばで、切れ目のたびに耳を澄ませた。


 一度目の切れ目には、何も来ない。二度目にも、来ない。


 三晩目の今夜、あの声は、来なかった。


 ……それが、いちばん嫌だった。


 毎晩来るなら、ただの押し売りだ。来ない晩を作るのは、こちらの耳を待たせるやり方だ。


 釣り針は、投げっぱなしにしない。時々引き上げて、魚の腹を空かせる。


 ヨゾラは繕い物を膝に置いたまま、長いこと、火を見ていた。


 その髪で、三色の組紐が緩んでいた。


 あの声の晩から、僕は結い直していない。髪を結うのは僕の係なのに、二日、手が止まっていた。


 緩んだ紐は、それでもほどけずに、細い糸で持ちこたえている。


 ……どこかで見た形だと思ったら、結び目だった。祠の、あの結び目と同じ痩せ方をしている。


 僕は立って、櫛(くし)を取って、ヨゾラの後ろに座った。


 初めて結った日のことを、指が覚えている。あの日は夕日で、糸がよく見えた。今夜は暖炉の火で、影のほうが多い。


 何も言わなかった。言うと、断られる気がした。


 ヨゾラの背中が、少しだけ硬くなる。それから、ゆっくり、力が抜けた。


 わずかに、こちらへ背中を向け直す。……結っていい、ということだ。


 僕は緩んだ組紐を、いちどぜんぶほどいた。


 祝詞と同じだ。途中でつっかえたものは、最初からやり直し。


 いつかそう言ったのは僕で、あのときは紐の話だった。今夜のこれは、紐だけの話じゃない。


 黒い髪に櫛を通して、三色の糸を絡め直していく。


 「……きつく」


 注文が、ひとつだけ来た。ほどけないように、という意味だと思う。


 編みながら、僕は言った。


 「……ごめん。会いたいだけ、なんて言い方をした」


 手元の糸が、指の中で一度だけ震えた。ヨゾラの頭は、動かない。


 「会いたいのは、悪いことじゃない。悪いのは、言い方を間違えた僕のほう」


 「……私も」


 声は、小さかった。


 「番人は私、って。……初めて、名乗った」


 「うん」


 「名乗ったのに。……ひとりで、行こうとした。ふたりなのに」


 二日ぶんの言えなかったことを、指でやっているのだと、途中で気づいた。


 編み終わりを、きゅ、と締める。ほどけないように。でも、痛くないように。


 銀の髪に、三色。黒い髪に、三色。


 鏡はないけれど、同じ形になったのは、手が覚えている。


 ヨゾラが振り返った。結い上がった髪に指先で触れて、それから、僕を見る。


 「……結月」


 「ん?」


 「……ありがと」


 名前と、ありがとう。二日ぶんの距離が、その二言で埋まった。


 「ねえ、ヨゾラ。……決めたことがある」


 今夜のうちに言ってしまいたくて、僕は口を開いた。


 「耐える係を、やめよう。二人とも」


 「……ん?」


 「僕が削れて耐えるのも、君が聞かないで耐えるのも、ぜんぶ守りだ。守りは、続けるほど痩せる。……あの結び目と同じ」


 ヨゾラの目が、まっすぐこちらを見ている。


 「だから、取り返しに行く。声を聞きに行くんじゃなくて——あの中から、母さんを」


 ヨゾラの息が、止まったのがわかった。膝の上の手が、繕い物をぎゅっと掴む。


 言い切るまで、息を継がなかった。継ぐと、勇気の途中でつっかえる気がした。


 「……どうやって」


 「書きかけの、ページがある」


 ヨゾラの眉が、ほんの少し動いた。心当たりの、ある顔だった。


 「まだ全部は言えない。僕も、全部はわかってない。……でも、守りの反対のことが、あそこに書いてある」


 「…………」


 「手伝ってほしい。番人、二人で」


 ヨゾラはしばらく黙っていた。それから、頷く代わりに、僕の袖を軽く引いた。


 引いて、離さなかった。


 答えとしては、それで全部だった。


 寝る前に、ヨゾラが炭を取った。


 その手は、いつもどおりだった。見えるだけじゃなく、たぶん、中身も。


 道の書に、一行。


 『なおした。』


 紐のことか、僕たちのことかは、書いていない。……たぶん、どちらもだ。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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