第54話 けんか
雪が、朝から降り続いている。
長老の家の囲炉裏に、僕たちは昨夜のことを並べた。林の奥から聞こえた声と、三行で止まった唄と、癖のない歌い方。
長老は火箸を灰に立てたまま、長いこと黙っていた。
「唄は、やめん」
顔を上げて、そう言った。
「やめたら、効いとると教えることになる。……それに、村の者から唄を取り上げたら、今度は静けさに耐えられん」
僕と同じ結論だった。少しだけ、心強い。
この村は怖がり方だけ、上手になっている。歌いながら怖がるという方法を、十日あまりで覚えてしまった。
「ええか、二人とも」
長老の目が僕から、ヨゾラへ移った。
「四行目は、探すな。……向こうが撒いた餌に、名前がついとるだけや」
ヨゾラは返事をしなかった。頷きもしなかった。
長老はそれ以上、何も言わなかった。言っても無駄だとわかる相手の顔を、この人はよく知っている。
昼のあいだ、僕は禁忌の書を繰った。
唄に近い何かがないか。破れた言葉を補う術がないか。指でページを送りながら、探した。
そして、あのページで手が止まる。蝕月の一節。書きかけのまま、まだ完成していないページだ。
届かない棚に置かれた薬みたいに、そこにあるのに取れない。……いま欲しいものは、いつだって、まだ書き終わっていないところにある。
ヨゾラは一日じゅう、道の書を開いたり閉じたりしていた。昨夜の一行を、何度も読み返している。
『こえが、うたった。三ぎょうめまで。』
三行目までしか歌えなかった、とも読める。三行目までは歌えた、とも読める。
どちらに読むかで、今夜の過ごし方が変わる。
夕方の祠は昨日より、暗かった。
結び目は朝結んだ形を、もう半分ほど失っていた。ヨゾラは目だけで測って、何も言わずに背を向けた。
帰り道、この人は一度も口をきかなかった。
やがて、夜になった。
村の唄が始まって、いつもの節が家から家へ渡っていく。僕は暖炉のそばで、聞くともなしに数えていた。
昨日と同じ切れ目だった。
遠くで、細い声が節を継ぐ。一行目から二行目、そして三行目——そこで、止まる。
二晩目の沈黙は、一晩目より重かった。
昨日は驚きで済んだ。今夜のこれは、待たされている。
ヨゾラが立ち上がった。
壁の釘から外套を取って、袖に腕を通す。動きに迷いがない。ずっと考えていた人の動き方だ。
「どこ行くの」
「……祠」
「夜だよ」
「知ってる」
僕は戸口の前に立った。体で塞ぐ、みたいな格好になった。
「聞くだけ。……こたえない」
「昨日もそう言った」
「昨日は、行かなかった」
声がいつもより、長い。この人がこんなに続けて喋るのは、怒っているときだけだ。
「ヨゾラ」
「四行目があれば、村は冬を越せる。……祠も、もつ」
「もたないよ。君が」
「私は、削れてない」
そこを、突かれた。
「あなたは削れてる。毎朝、鎖を呼んで。夕方も、私が止めなかったら呼んでた」
その言葉が、まっすぐ刺さってきた。
「……番人は、私。あなただけじゃない」
強い意志の宿った言葉だった。
外套の襟を掴んだ手が、白かった。
この人は僕を守るために、僕を締め出そうとしている。それがわかるから、余計にたちが悪い。
だから僕はいちばん、言ってはいけないことを言った。
「——母さんに、会いたいだけじゃないの」
言い終わる前に、もう後悔していた。
ヨゾラの動きが止まった。目がゆっくり、こちらへ向く。
「……そうだよ」
静かな声だった。
「会いたい。……ずっと」
うすい氷を踏み抜いた音が、僕の足元でした。
「ごめん」
「いい」
「よくないよ。ごめん」
「……いい」
ヨゾラは戸のほうへ一歩、踏み出した。僕は動かなかった。
押しのけようとして、この人の手が僕の腕にかかる。振り払われる、と思った。
でも、振り払われはしなかった。
掴んだまま、動かない。行きたいのに、押しのけられない。この人の手は、そういうふうにできている。
俯いた拍子に、黒い髪の三色が揺れた。
そこで思い出した。もうひとつ、この人が絶対に踏み越えられない線があることを。
「ツキヨはどうするの」
ヨゾラの指が、ぴくりと動いた。
「あの子は君の影で寝てる。君が出たら、この子も夜の外に出ることになる」
呼び声のそばに、応えられる耳を置かない。そう決めたのは、この人だ。
「守るために決めたことを、君が最初に破るの」
足元で、りん、と鳴った。
ツキヨが影から半分だけ出て、ヨゾラの外套の裾に鼻先を押しつけていた。行くなとも、行こうとも言えない子が、それでも触れられる場所を選んで、そこにいた。
ヨゾラの手から、力が抜けた。
「……ずるい」
「うん。ずるい」
「……ふたりとも、ずるい」
ヨゾラの膝が折れた。僕は間に合わなくて、この人は床に座り込んだ。外套の裾が雪解けみたいに、広がった。
「思い出したら、私が歌うって、言ったのに」
膝に置いた手が、震えていた。寒さではないほうの震え方だった。
いつか自分で言った言葉に、いちばん深く刺されている。
「聞かなくても、思い出すかもしれない」
「……いつ」
「わからない」
「……村が、もたない」
「じゃあ僕が、もたせる」
言ってから、まずいと思った。ヨゾラの目が上がる。今夜いちばん、怒った目だった。
「それが、いや」
削れる、という言葉をこの人は使わなかった。使えば、僕が笑って否定するとわかっているからだ。
僕たちは同じことで、喧嘩をしていた。相手が減るのが嫌だ、というだけの話だった。
林の奥は、いつのまにか黙っていた。今夜の釣りは、これで店じまいということらしい。
うちの家だけが、村でいちばんうるさかった。
僕は床に座って、この人の隣に並んだ。近いのに、どちらも手を出さない。出せない距離、というものが世の中にはある。
「……今日は、寝よう」
「ん」
結論は何も、出なかった。喧嘩というのは、たいてい何も解決しないまま夜が来る。
ただ、外套は釘に戻った。戸は開かなかった。
暗がりで、銀の髪の三色と、黒い髪の三色が、同じ暗さの中に沈んでいる。
どちらの紐も、ほどけてはいなかった。
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