第53話 つづきのこえ
「——夕方は、見るだけ」
朝の務めの帰り道で、ヨゾラがそう切り出した。
結ばない。結び目の痩せ具合を見て、覚えて、帰る。見るだけなら祝詞は要らない——つまり、僕が削れない。
昨日の「私だけで行く」が、ひと晩かけてこの形になったらしい。
「……それなら、二人で行っても同じでしょ」
「ん。……二人で、見るだけ」
「……夜が、薄くなる」
「ん。……でも、倒れた番人は、朝も結べない」
これがこの人なりの、精いっぱいの譲歩なのだった。僕も譲ることにした。削れないなら、並んで歩くだけだ。
トウヤさんが夕の道に同行を申し出てくれて、三人と一匹の列になった。剣は届かなくても、目と耳は多いほうがいい。
朝は結び、夕は見る。一日の形が、また少し変わった。冬のあいだ、僕たちの暮らしはこうやって、静かに作り替えられていく。
日の落ちかけた祠は、朝より影が深い。
結び目は今朝結んだばかりなのに、もう糸の細さが変わっていた。ヨゾラは指を当てず、目だけで測って、短く息を吐いた。
ツキヨは自分の持ち場に座った。ただ、耳だけは戸ではなく、森を向いていた。
「帰ろう」
声をかけると、あの子は少し遅れて立ち上がった。
夜、唄が始まった。
僕は暖炉に薪を足しながら、いつもの節を、数えるともなく数えていた。井戸端の大声と、どこかの低い鼻歌。子どもらの合唱は、もう眠る時間だから聞こえない。
その、切れ目だった。
遠くで、細い声が節を継いだ。
村の、どの家の声でもない。
声は林の奥のほうから、来ていた。風に千切られて、言葉は切れ切れにしか届かない。それでも節で、同じ唄だとわかる。
——とを、たたく……
ヨゾラの手から、繕い物が滑り落ちた。
拾わなかった。拾うという動きを、この人の体が忘れていた。
その声は不気味なくらい正確だった。音の高さも、間の取り方も、聞き取ったとおりに歌う子どもみたいに正確だった。
村の唄には家ごとの、癖がある。井戸端のおばさんは跳ねるし、長老は伸ばす。
あの声には癖が、なかった。誰からも習っていない唄は、こんなふうに真っ白な形をしている。
一行目を歌い、二行目を歌い、三行目を——
三行目の終わりで、ぴたりと止んだ。
紙が破れていた、ちょうどそこで。
静寂が、続きを待っている。
歌いさしの節ほど、気持ちの悪いものはない。切れた場所を、耳が勝手に埋めたがる。
そして——埋められる者が、この家には一人いる。
ヨゾラの唇が、動きかけた。
「——結月」
出てきたのは、唄の続きじゃなかった。僕の名前だった。
考えるより先に、口がいちばん強い言葉を掴んだのだと思う。魔法でも祝詞でもない、ただの二文字。この人は自分の声で、自分を夜のこちら側へ引き戻した。
長い息をひとつ吐いて、この人は自分の口を、手のひらで軽く押さえた。
「……母さんの、声」
声は、乱れていなかった。乱れていないことが、いちばんこわかった。
知っている声だった。祠の戸の向こうから聞いた、あの声だ。
でも、あのときは戸一枚の内側だった。今夜のあれは、外にいる。夜の中を、唄に乗って歩いている。
結び目が痩せるというのは、こういうことだった。中身が、細く、漏れている。
りん、りん。
ツキヨが影から出て、窓の下に立った。鈴が二回、鳴った。
……この鳴き方を、僕は前にも聞いた。
「……二回の鈴って、これのこと?」
あの子はこちらを見上げた。それが返事だった。
道の書の三行が、頭の中で並び直る。間は三日、次は二日。……そして今夜で、一日になった。
あれは近づいてくる足音の記録じゃない。練習だったのだ。森の奥であれはずっと唄をさらっていて、今夜が本番だった。
ツキヨだけが、それをずっと聞いていた。
言葉にできない子が、十日ものあいだ、たった一人で聞いていた。
僕はしゃがんで、あの子の頭に手を置いた。伝わらなかったのは、この子のせいじゃない。受け取れなかった、僕たちの側の話だ。
ひと晩ぶんを前に謝った。今度は、十日ぶんだ。
昨日の夜、嫌な考えが一度だけよぎった。歌うな、とは言っていない、と。
当たってほしくない予感ほど、よく当たる。名前を呼ぶなと言い、戸を叩くなと言った。あれは、どちらも守っている。
律儀に守ったうえで、これをやっている。
足せばいい、とはもう思わなかった。昨日ヨゾラが首を横に振った意味が、今夜わかった。塞いでも塞いでも、向こうは形を変える。壁の勝負では、終わらない。
「……ねえ」
ヨゾラが押さえていた手を、下ろした。声は静かで、静かすぎた。
「ちいさいころに聞いた、あの声。……ずっと、誰か、わからなかった」
「…………」
「今夜、わかった。……母さんの声で、聞いてたの。唄の、つづき」
四行目は、山道のどこにも落ちていない。この人の、いちばん古い記憶の底にだけ、沈んでいる。
「もういちど聞けば——思い出せる」
思い出せば、唄が揃う。唄が揃えば、この冬を越す言葉が増える。村のための理屈が、ちゃんと立っている。
釣り針は、いちばん正しい形をして落ちてくる。
「だめだ」
考えるより先に、口から出ていた。
「聞くだけ。……こたえなければ」
「名乗られたら、聞く。聞けば、答えたくなる。——決まりは、そのためにあるんだ」
ヨゾラは黙って、壁の紙を見た。
『おとには、こたえない。』
自分たちで編んだ決まりが、今夜はじめて、自分たちのほうを向いていた。
あの唄の続きは、この冬を越すために、いちばん欲しいものだ。
その鍵だけを、いちばん聞いてはいけない声が握っている。
欲しいものを餌にするやり方なら、僕も知っている。あれは戸を叩くのをやめたんじゃない。叩く場所を、木の戸から、人の耳に替えただけだ。
外の声はもう、聞こえない。今夜のぶんは終わったらしい。
村の唄だけが、いつもどおりに続いている。何も知らないまま、家から家へ、灯りを渡って。
唄を止めるべきかどうか、少しだけ考えた。……止めない。こちらが何かを変えれば、効いたと教えることになる。
明日、長老に報せる。決めるのは、それからでいい。
ヨゾラは繕い物を拾い上げて、膝に置いて、それきり針を動かさなかった。
僕は薪をもう一本、火に足した。今夜は長く起きていることになる気がした。
寝る前に、ヨゾラが道の書へ一行。
『こえが、うたった。三ぎょうめまで。』
炭を持つ手は、いつもどおりに見えた。いつもどおりに見えることが、今夜はいちばん、心配だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白かったら ↓の☆☆☆☆☆ をポチッと評価&ブクマしていただけると、とても励みになります(^^)
☆⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️☆




