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『封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史』  作者: 鏡花
越冬編

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第52話 ならんだ三行

 唄は、まだ続いている。


 年が明けて十日。夜になるとどこかの家で節が始まり、それが隣へ、また隣へと渡っていく。


 最初の三日は、みんな声が硬かった。恐ろしいものを追い払うために歌っているのだと、誰もが意識していたからだと思う。


 いまはもう、洗い物をしながらの鼻歌になっている。子どもらはとっくに、遊び歌にしてしまった。


 ときどき節の切れ目に「きこく!!」が挟まるのは、たぶんもう直らない。


 怖いものが暮らしの一部になっていく。それが良いことなのかどうか、僕にはまだわからない。


 朝の務めもいつもどおりに続いている。


 僕の祝詞(のりと)が通って、鎖が応える。戸の前に光の輪が下りて、結び目が締まり、白く満ちる。ヨゾラは聞く係の位置で、最後まで目を開けている。


 ——満ちる。そこまでは、いい。


 「……痩せてる」


 三日前の朝、ヨゾラが結び目に指を当てて、短くそう言った。


 言われて、僕も目を凝らした。たしかに昨日結んだばかりの目が、糸一本ぶんくらい細い。


 冬の初めのころ、結んだ目はひと月ちかくもった。


 いまは毎朝で、その毎朝が、一日もたなくなっている。


 「……夕方に、もう一度来る」


 ヨゾラはそう決めた。その日から、務めは一日に二回になった。


 「僕も行く」


 「……あなたは、いい」


 「行くよ」


 ヨゾラは何か言いかけて、やめた。鎖を呼べるのは僕だけだから、断りようがない。


 断りようがないことを、この人はたぶん、少しだけ嫌がっている。


 日が傾いてからの祠は、朝とはまるで別の場所だった。


 林の影が伸びて、戸の木目が見えなくなる。祝詞の声も、朝より近いところで返ってくる。


 鎖を呼べば、結び目は素直に満ちた。素直すぎるくらいに。


 減るのが早いだけで、効きが悪いわけではない。……それが、かえって嫌な感じだった。


 ツキヨは夕方の務めにもついてきた。祠の前ではヨゾラの影から出て、戸のほうを向いて座る。


 誰に教わったわけでもないのに、この子は自分の持ち場を知っている。


 日が落ちきる前に、村へ戻る。それだけは、変えない。


 鎖を二度呼ぶということは、僕が二回ぶん削れるということだ。


 削れた顔は、しないことにしていた。……この手の隠し事の練習だけは、五年ぶん積んである。


 ヨゾラは何も言わなかった。ただ、帰り道を歩く速さが、行きより少しだけ遅い。


 今日の昼、イワネさんとトウヤさんが外回りから戻ってきた。


 「静かだ」


 イワネさんはそれだけ言って、竈(かまど)の火に手をかざした。


 「獣の足跡が、この十日でだいぶ減った。……いなくなったんじゃねえ。動かねえんだ」


 冬の獣が動くのは、腹が減るからだ。動かないというのは、腹より先に、動きたくない理由があるということだ。


 トウヤさんが、言葉の前に息をひとつ置いた。


 「森の音が、遠くなっています。……木の鳴る音まで」


 剣で届かないものの気配を、この人は音で測るようになったらしい。


 村の外側を歩く人が二人とも同じことを言うのなら、それはもう、気のせいではない。


 長老のところにも寄った。唄の続きのほうは、まだ見つかっていない。


 「行商の足が止まっとる。雪でな」


 北の道が閉じれば、四行目は春まで来ない。この冬を、いま手元にある言葉だけで越すということだ。


 結び目が痩せてきた話をすると、長老は灰を見たまま、しばらく黙っていた。


 「近づいてくるもんはな。たいてい、向こうから名乗るもんや」


 名乗られたら、こちらは聞くことになる。聞けば、答えたくなる。


 ……決まりは、そのためにあるのだ。


 ツキヨはこの十日で、三度も森を見た。


 一度目は薪をもらいに行った帰り。二度目は井戸端で、水を飲んでいる途中に。三度目は今朝、務めからの帰り道で。


 どれも同じだった。耳を森へ向けて、口を開けて、鈴がひとつ鳴るだけ。


 三度目だけ、間を置かずに二回鳴った。それが何かの違いなのかどうかも、僕にはわからない。


 ヨゾラはそのたびに、道の書へ短い一行を書き足していた。


 夜、いつもの節が始まった。


 僕は暖炉のそばで、村の唄を聞くともなしに聞いていた。……はずだった。


 節の切れ目が、一拍ずれた。


 どこかの家が遅れて入ったのだと思った。実際、そういうことはよくある。


 でも、ヨゾラの手が止まっていた。


 「……いま」


 「うん」


 「……村の、どれでもない」


 僕は立って、窓の隙間から外を見た。


 村の灯りはいつもの数だけ並んでいる。歌っている家も、たぶん同じ数だ。


 ……数えられるものは、全部合っていた。


 節はもとに戻っている。数えても、灯りのついた家の数と合っている。


 ツキヨの耳が、二本とも立っていた。


 叩くな、と僕は言った。呼ぶな、とも言った。


 ——歌うな、とは、言っていない。


 その晩、ヨゾラは道の書を最初から繰った。


 同じ一行が、三つ並んでいる。


 『ツキヨが、もりを みた。』


 この人の記録に、日付はない。この世界には、日を留めておく暦がないからだ。


 数えるのは、僕の仕事だった。


 僕は自分の帳面——日数を数えるためだけの、細長い一冊だ——を開いて、三つの行に、僕の暦の日を当てていった。


 初めの間は、四日。次は、二日。


 「……縮んでる」


 急ぐ話ではなかったものが、並ぶと形になった。


 書き留めておいてよかった、と思う気持ちと、書き留めなければ気づかずに済んだのに、と思う気持ちが、同時に来た。


 「……もう一行、足す?」


 僕は言ってみた。決まりのことだ。穴が空いたのなら、また塞げばいい。


 ヨゾラは道の書を見たまま、少し考えて、首を横に振った。


 「……足しても、たぶん」


 その先は言わなかった。言わなくても、僕たちは同じところに着いていた。


 寝る前、ヨゾラが僕の手を取った。


 「……冷たい」


 「そりゃ、冬だし」


 「……ちがう」


 鎖を呼ぶのは、一日に二回になった。二回目のあとは、指の先から順に温度が抜けていく。


 黙っていれば気づかれない、と思っていた。ばかな話だ。この人が僕の恥を、見逃したことなんてないのに。


 「明日の夕方は、私だけで行く」


 「無理だよ。鎖は僕しか——」


 「……知ってる」


 知っていて、それでも言ったのだ。


 僕は握られたままの手を、握り返した。冷たいほうとあたたかいほうが同じ温度になるまで、少しかかった。


 その夜、道の書に一行が増えた。


 『しるしが、ちぢんでいる。』


 その下は、まだ白いままだった。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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