第51話 鬼哭《まきわり》
乾いた音が、村はずれから聞こえていた。
かん、かん、と一定の間隔で続いている。この冬、音というのはたいてい怖いものだった。だから怖くない音は、それだけで少し珍しい。
元日から、三日。村は寝不足のまま、冬の底に入っていた。毎晩の唄と、毎朝の務め。どちらも、続けること自体が仕事になっている。
「……薪割り」
ヨゾラが言った。今朝の務めはいつもどおりに終わって、僕たちは籠を提げて歩いている。
務めにトウヤさんはいなかった。年明けから、イワネさんと外回りの当番が続いている。
暖炉の薪が心細くなってきたので、分けてもらう約束をしていた。空き家には、長老の手配で余るほど積んであるらしい。
着いてみると、すでに見物人がいた。
子どもが四人、雪の上にしゃがんで、順番でも待つみたいに並んでいる。
トウヤさんは外套を脱いで、袖を肘までまくっていた。この寒さで、うっすら汗をかいている。
その足元には、割られた薪が塔のように積み上がっていた。元日に一抱えぶんを運んでいた人が、三日でこの山を作ったわけだ。
トウヤさんは僕たちに気づくと、斧を下ろして頭を下げた。
「ルナ殿。ヨゾラ殿」
挨拶の前に、白い息がひとつ立つ。この人の癖だ。
「薪は、そちらに。好きなだけお持ちください」
言いながら、次の一本を台に立てる。斧が上がって、下りた。
音は、かん、と一度きりだった。
割れた薪は二つとも、倒れずに台の上に立っていた。断面が白くて、平らで、光っている。
「……鏡」
同じことを、僕も前に思った。
子どもたちが、わっと声を上げる。見物の目当ては、どうやらこれらしい。
「ルナ殿」
トウヤさんが斧を下ろしたまま、まっすぐこちらを向いた。
嫌な予感がした。この立ち方には、覚えがある。
「これにも、名を頂けますか」
「……薪割りだよ!?」
僕の声が裏返っても、トウヤさんの目は動かなかった。
「技ではありません。承知しています」
「わかってるならなんで」
「毎日、振るからです」
技名をつけるのは二度目になる。一度目は剣に、今度は薪割りに。
……僕の五年間は、いったいどこへ向かっているんだろう。
言葉の前に、息をひとつ。
「いざというときの一振りには、名を頂きました。……ですが、私がいちばん多く振るのは、こちらです」
斧の柄を、軽く持ち上げてみせる。
「毎日振るものにこそ、名が要るのではありませんか」
隣で、ヨゾラが小さく息を吸った。
「……わかる」
「わかっちゃうんだ!?」
「ん。……毎日のものに、名前があると。……続けられる」
言われて、思い当たってしまった。
毎朝の務めに、僕たちは名前をつけている。あの鎖に名を与えた日から、僕はそれを毎日呼んでいる。
名前があるから、あれは「今日もやること」になった。
……理屈が、通ってしまった。
僕はヨゾラを見た。助けてほしかったのだと思う。
彼女は僕を見返して、ひとつ頷いた。……いちばん逃げ場のない方向に、味方がいる。
僕は籠を雪の上に置いた。
「……わかったよ。やる」
子どもたちが息を呑む。トウヤさんが、姿勢を正した。
薪を割る一撃。台の上で一度きり、硬いものをまっすぐに断つ。
頭の奥の引き出しが、勝手に開いた。五年ぶんの在庫は、こういうときだけ働きが早い。
「『鬼哭』。……きこく、って読む」
「きこく」
「鬼が、哭くって書く。割られた薪が泣くくらい、鮮やかに、っていう意味」
言い終えてから、自分の言葉の恥ずかしさが、遅れて追いついてきた。薪は泣かない。ただの薪なのだから。
トウヤさんはその言葉を、口の中で二度、ゆっくり転がした。
それから薪を台に立てて、斧を構える。
「——『鬼哭』」
声が、いつもの倍の高さで飛んだ。
斧が下りると、かん、と、さっきよりずっと澄んだ音がした。
薪は、二つに割れた。
断面はいつもどおり平らで、いつもどおり光っている。霜も、光も、風も出ない。
ただ、音だけが違った。
「……音に、乗った」
ヨゾラが小さく言った。
鬼が、哭く——名前が指していたのは断ち方でも冷たさでもなく、音のほうだ。だから、音にだけ乗った。
冬の牙は冬を連れてきて、哭き声は、薪の割れる音を連れてきた。……規模が、あまりにも小さい。
子どもたちは、雪の上で飛び上がって喜んだ。
トウヤさんは斧を下ろし、割れた薪をひとつ手に取って、しばらく眺めていた。
それから、腰から折るような礼をひとつ。
「……良い名です」
「……名を頂くと、変わるものですね」
割れた薪を眺めたまま、そう続けた声が、少しだけ低かった。
何を確かめている声なのかは、そのときの僕にはわからなかった。
まっすぐに、心から喜ばれている。
僕は足元の雪を見つめた。
「……我ながら、鬼がかってる」
「?」
隣で、ヨゾラが首を傾げた。
「……鬼が、かかる?」
「僕の世界の、褒め言葉」
嘘ではない。ただ、元の言い方は「神」のほうなのだと説明しかけて、やめた。この世界の神様の話をはじめると、たぶん長くなる。
問題はそのあとに起きた。
「きこく!!」
「きこく——!!」
子どもたちが、雪の山を割る真似をしながら走っていく。
明日には村じゅうの子が、薪を割るふりをしている。……たぶん、そうなる。
籠いっぱいに薪を積んで、僕たちは帰り道を歩いた。
雪はよく締まっていて、踏むたびに、きゅ、と鳴る。籠は行きよりずいぶん重い。
割られたばかりの薪は、匂いがいちばん強い。冬の匂いのなかで、そこだけ夏の木の匂いがした。
途中で、ヨゾラの影から、りん、と鳴った。
ツキヨが顔を出して、耳を森のほうへ向けている。
「どうした?」
あの子は僕を見上げて、それから口を——たぶん、口を、開けた。
声は出ずに、鈴がひとつ鳴っただけだった。
「……ん?」
もう一度、さっきより短く鈴が鳴る。
伝えたいことがあるのはわかる。わからないのは、中身のほうだ。
この子が何かを見つけるのは、いつも僕たちより早い。耳のほうが口より先に、育ってしまった子なのだ。
「いつか、話せたらいいのにね」
言ってから、少し驚いた。自分の口から出た言葉なのに、思ったより本気の響きがした。
ツキヨは僕をしばらく見て、それから影に戻った。
ヨゾラが籠を持ち直しながら、言った。
「……名前は、あるのに」
「うん。……名前は、あるんだけどね」
僕たちは足を止めて、森のほうを見た。木はただ立っているだけで、音もしない。
その晩、ヨゾラは道の書に一行だけ書き足した。
『ツキヨが、もりを みた。』
急ぐ話ではない。急ぐ話ではないものを書き留めておくのも、番人の仕事だ。
家に着くころには、村のほうから、まだ「きこく!!」が聞こえていた。
明日も、あの音は鳴るのだろう。怖くない音が村に増えるのは、悪いことではない。
中二の剣士は、薪割りにまで礼を尽くすらしい。
……そのうち、洗濯物を干す手つきにも名前をねだられる気がする。
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