第50話 新年開闢《はつひので》
元日の朝は静かで、白い。
村じゅうが夜通し唄った。だから今朝は、どの家からも物音がしない。窓の下を通っても、寝息のほうが大きいくらいだ。
僕たちはいつもどおりに起きた。番人の務めに、休みはない。
外套を着て戸を開けると、雪の匂いが顔に当たった。東の空の縁が、薄い橙に色を変えはじめている。
「……結月」
坂の途中で、ヨゾラが足を止めた。指が東を指している。
林の輪郭の上に、光の粒がひとつ乗った。それがみるみる大きくなる。
雪の斜面が下から順に、色を変えていった。白が薄い金に変わって、木の影だけが藍のまま残る。
「初日の出だ」
僕は言った。
「僕の世界だと、今日の朝日をそう呼ぶんだ。一年でいちばん最初の朝日」
「……いちねんで、いちばん」
「昨日で一年が終わって、今日から新しい一年。……僕の世界の暦の話だけどね」
ヨゾラはしばらく黙って光を見ていた。それから、小さく言った。
「……こっちは、区切らない」
「区切らない?」
「ん。冬が来て、春が来て、また続く。……切れ目は、つけない」
季節はある。巡ってもいる。ただ、この世界はその巡りに、はじまりの線を引かないらしい。
だから昨日の年越しも、今朝の初日の出も、村の行事ではない。僕がこの家に持ち込んだだけの、二人ぶんの決まりごとだ。
それでも彼女は僕の隣に立って、同じ方角を見ている。
「手を合わせるんだよ」
僕が両手を胸の前で合わせてみせると、ヨゾラが真似をした。編んだ組紐が、朝日で一瞬だけ三色に分かれて見えた。
願い事は口に出さない決まりだ。……本当は決まりでも何でもないけれど、今年はそういうことにしておきたかった。
僕の願いは、この冬が始まってから、ずっと同じだ。目を閉じているあいだ、隣の呼吸が止まっているのがわかった。この人にも、続きがあるのだ。
戸を叩く音が始まったあの朝も、今日から去年の話になる。……ずいぶん近い、去年だ。
祠に着くころには、日は林を離れていた。
トウヤさんは今朝、イワネさんと外回りに出ている。年が明けても、外の見回りは休まない。
年の最初の務め、と胸の中で呼んでみる。数えるのは帳面の仕事だから、口には出さない。
祝詞はいつもどおり通った。結び目も、いつもどおり満ちた。
戸は静かだった。年が変わっても、あの静けさだけは変わらない。
ただ、帰りぎわに、ツキヨの耳がひととき祠のほうを向いた。すぐに引っ込んで、影の中で、りん、とひとつ。
見なかったことにした。今日くらいは。
家に戻ると、竈に火を入れた。
「今日は、僕が作る」
「ん。……お客さん?」
「そう。今日だけ、君はお客さん」
ヨゾラは腰を浮かせかけて、僕に見られて、また座った。手が膝の上で行き場をなくしている。
人の台所に立たない冬が、この人には少し長すぎるらしい。
僕の世界では、年の初めに決まったものを食べる。餅という、白くて伸びる不思議な食べ物だ。
こっちにはないので、代わりを探した。麦を山羊の乳でことこと煮て、最後に蜂蜜をひとたらし。粥である。
「……甘い」
「よかった」
「……年の初めは、甘い」
ヨゾラが二口目を掬った。甘党の一年が、無事に始まったらしい。
足元で、りん、と鳴った。
ツキヨがヨゾラの影から顔だけ出している。蜂蜜の匂いは、影の中まで届くらしい。
「あけましておめでとう。……はい、お年玉」
僕は蜂蜜水を、いつもより多めに椀へ注いだ。
「僕の世界だと、年の初めに、大人が子どもに贈り物をするんだ」
説明が終わる前に、椀は空になっていた。
耳が二本、満足そうに揺れている。……この子はたぶん、贈り物の意味より、蜂蜜の甘さのほうを先に理解した。
昼過ぎ、僕は紙を三枚と、炭の欠片を机に並べた。紙はこないだ、行商から買っておいたものだ。三枚で、けっこうな値段がした。
「書き初め、っていうんだ。年の初めに、字を書く」
「……なに、書くの」
「今年、したいこと。一つだけ」
ヨゾラは紙を一枚だけ手に取って、光にかざした。この村で字を書くのは、それだけで少し特別なことだ。
先に炭を執ったのは僕だった。手が勝手に動いて、口も勝手に動いていた。
『我、来たる年も夜を統べん』
……五年間の癖である。しかも、僕の世界の字で書いていた。
書いてから気づいて、猛烈な速さで紙を裏返した。裏返した先で、ヨゾラと目が合った。
「……見た?」
「ん」
「……読めないでしょ」
「ん。……でも、聞こえた」
「…………」
「……よる、統べてた」
この人は僕の恥を絶対に見逃さない。しかも、覚える。
紙をもう一枚——と言いかけて、口を閉じた。三枚しかないし、安くもない。
僕は裏返したままの紙を、そのまま使うことにした。
今年したいことは、本当は山ほどある。旅も、まだ開けていないページも、教わりたい料理も。
でも、一つだけと言ったのは僕だ。だから、いちばん先に来るものを書いた。
今度はヨゾラの、読める字で。読めない字で書いた願いは、ただの落書きだ。
『ふゆをこす』
ヨゾラは僕よりずっと長く考えていた。炭の先が、紙の上で二度止まった。
書き上がった二文字を、こちらへ向ける。
『たび』
冬至の夜に聞いた言葉が、字になって机の上にあった。
「……気が早いよ」
「ん。……気が、早い」
言いながら、耳の先が少しだけ赤かった。
二枚を並べてみる。
越えて、行く。並べると、そういう順番になった。
僕が越える係で、ヨゾラが行き先の係。役割はたぶん、これで合っている。
三枚目が余っていた。
「ツキヨの分」
ヨゾラがそう言って、床に紙を置いた。
ツキヨは首を傾げてから、紙のまんなかに鼻先を押しつけた。銀の粉が、点ひとつ。
「……一字」
「うん。一字だ」
三枚とも、窓辺の板絵の隣に貼った。僕の紙は、当然、黒歴史の面を壁側にして。
絵の中の星と、字の並びと、銀の点。窓辺がこの家でいちばん、賑やかな場所になった。
日が傾くころ、トウヤさんが薪を抱えて戻ってきた。宿の煙突から煙が出ていないと、長老が気にしていたらしい。
僕はその背中に、新年の挨拶を教えた。
「あけましておめでとうございます、って言うんです」
白い息が、いつもより長く立った。それから、深く、長い礼。
「……あけまして、おめでとうございます」
礼の長さはいつもの倍あった。
長老に同じ話をすると、ほっほ、と笑われた。
「年が改まる、いうのはええな。冬の途中に、一枚、区切りが入るんじゃ」
夜、井戸端のおばさんの大声が、唄の前に一言だけ混じった。
「あけましておめでとーう!!」
誰かが笑って、返した。返した声が二つ、三つと増えていく。
この村は、覚えるのが早い。
それから、いつもの節が始まった。
年が明けても、唄は続く。務めも続く。戸の向こうの静けさも、たぶん続く。
それでも今日は、少しだけ違う。
窓辺の板絵の隣で、三枚の紙が暖炉の火に照らされている。
『ふゆをこす』と、『たび』と、銀の点がひとつ。
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