第49話 うたのつづき
「——あったで」
囲炉裏の火の向こうで、長老が紙切れを一枚、かざしてみせた。紙は囲炉裏の熱で端が少し反って、遠くから来た紙の顔をしている。
朝の務めはいつもどおりに済んだ。祝詞のあいだ、トウヤさんは三歩後ろで気配を消し、終わると深い礼をひとつ置いて、イワネさんと外の見回りへ出ていった。
祠の前は今朝も、沈黙のままだった。ヨゾラの言った「待たれてる、静かさ」が、まだ続いている。
その帰り道で、井戸端のおばさんに袖を引かれたのだ。長老さまがお呼びだよ、と。
いつもの大声が、今日は半分の大きさだった。声の大きい人が声をひそめると、報せの重さが先に伝わる。
祠の報告なら昼過ぎでいい。予定より早い呼び出しは、良い報せか悪い報せのどちらかと決まっている。
今日は、前者だった。
「行商の親父の帳面や。北の、そのまた北の集落での。孫を寝かしつけるのに、古い節を歌うばあさまがおる、と」
「子守唄……?」
「そや。ほっほ。……おかしいやろ。こっちでは戸を叩く化けもんの唄が、山ふたつ向こうでは、赤子を眠らせる唄になっとった」
長老の伝手が行商に飛び、行商の耳がその節を拾い、帳面の切れ端に書き取られて、山道を戻ってきた。
急いで書いたのだろう、字はたどたどしく、ところどころ跳ねている。それでも、読める。
言葉は、地面の下で繋がっている。いつか、星の授業でそんな話をした。
怖い形でも、あたたかい形でも。——本当に、両方の形で繋がっていたのだ。
ヨゾラが紙を両手で受け取った。祝詞を聞くときと同じ姿勢で、目が上から順に字を拾う。それから声に出して、ゆっくり読んだ。
『とを たたく おとが しても
へんじを するな こたえるな
ふゆの あいだは うたって こらえ』
三行目の下で、紙は破れていた。
四行目は山道のどこかか、もっとずっと昔のどこかに、置いてきぼりになっている。
「へんじを、するな」
僕は懐から、自分たちの紙を出した。村じゅうに配った、あの決まりだ。
あの夜、暖炉の火の明かりの下で、穴を塞ぐために自分の言葉で編んだ一行。
切れ端の隣に並べて、囲炉裏の明かりにかざす。
『おとには、こたえない。』
同じことを、言っている。言い回しも字の並びも違うのに、指している場所がひとつだ。
「……おんなじやな」
長老が目を細めた。
「誰にも教わっとらんのに、先人と同じ場所に着いとる。ほっほ。——それが、継ぐいうことや」
借り物の言葉は、ただの音だ。ばあちゃんの帳面は、そう言い切っていた。だから僕たちは借りずに、自分の言葉で決まりを編んだ。
その言葉が名前も知らない先人の唄と、同じ場所に着いていた。答え合わせだ。
丸は僕たちの側にも、唄の側にも付く。何百年か向こうの誰かと、同じ問題を解いて、同じ答えを書いた。
ヨゾラは何も言わず、二枚の紙を見比べていた。それから、小さく。
「……合ってた」
「うん。合ってた」
ヨゾラは二枚の紙の端を、指で揃えた。ずれないように、何度か。
「三行目や」
長老が火箸の先で灰に字を書く仕草をした。
「うたって、こらえ。……唄はな、記録でも戒めでも、あるだけやなかった。——凌ぎ方やったんや」
音が戸を叩く冬を、先人は唄で耐えた。返事の代わりに、唄。耳を貸す代わりに、自分の声を出す。
叩く音の上に、村じゅうの声で上書きをする。
唄なら、子どもでも老人でも持てる。武器にならないものが、この村の武器になる。
それは戦い方というより、暮らし方だった。
戸を叩かれながら、囲炉裏を囲んで唄う冬の家。想像すると怖い画で、それから、あたたかい画だった。
「今夜から、村で歌う」
長老はもう決めた顔をしていた。
「配りは、井戸端のおばさんに任せる。あの声なら、今夜のうちに村の隅まで届くでの。子どもらには、遊び歌にして流す」
夕方、見回りから戻ったトウヤさんにその話をすると、白い息をひとつ立ててから、深く礼をした。
「唄は……不得手です。口ずさむ、では、いけませんか」
「ええよ」と長老。「口ずさむのでええ。声はな、出すことに意味がある」
技名を全力で呼ぶ人が、唄には人並みに照れるらしい。少しだけ、親近感が湧いた。
節は、村の唄と同じものだった。失われていたのは、言葉のほうだけだ。
日が落ちると、村のあちこちから同じ節が聞こえはじめた。
井戸端の大声。子どもらの、跳ねるような合唱。どこかの家の、低い鼻歌。
窓の明かりの数だけ節があって、同じ唄が家から家へ、灯りを渡るように続いていく。
ヨゾラの影からは耳が二本だけ出て、節の切れ目に、りん、とひとつ合わせている。
祠の方角は——静かだ。
沈黙の向こうで、あれは唄を、聞いている。あるいは、覚えようとしているのか。
そこまで考えて、やめた。考えの続きは、夜に置いていかないほうがいい。
指折り数えれば、僕の世界では今夜が年の瀬だ。向こうでは年の変わり目に、みんなで夜更かしをして新しい年を迎える。
村じゅうがひとつの唄で夜を越そうとしている今夜と、やっていることは案外近い。悪くない、と思った。
唄は夜っぴて続くらしい。眠る家は眠りながら、起きている家が節を継ぐ。
家に戻ると、ヨゾラは道の書を開いて、短い一行を書き足した。
『うた、かえってくる。』
それからもう一度、切れ端を広げる。暖炉の火が破れ目に、小さな影を作っている。
三行を目でなぞり、破れ目の先を、指がゆっくり越えた。何もない紙の上を、指だけが進む。
唇が、少しだけ動いた。
音には、ならなかった。
「……これ」
ヨゾラのまばたきが、減っていた。
「知ってる。……気がする」
「唄を?」
「つづき。……ちいさいころ。誰かの、声で」
誰の、とは言わなかった。言えないのだと思う。
思い出はたぶん幼すぎる場所にある。だから僕も、聞かなかった。
湯気の向こうに誰の台所が見えているのかを、聞かなかった日と同じように。
破れた四行目は——山道のどこかでは、ないのかもしれない。
ヨゾラは切れ端をたたみ、道の書に挟んだ。それから暖炉の火を見たまま、言った。
「——思い出したら、私が、歌う」
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