第48話 冬牙《とうが》
音の止んだ祠は、音がしていた頃より、静かではなかった。
毎朝の務めは続いている。祝詞は通り、結び目は満ち、戸は沈黙したままだ。あの返事から、『とん』の一度もない。それなのに、祠の前に立つたび、僕は聞かれている。静けさの向こうで、何かが行儀よく、順番を待っている。
「……慣れないね、この静かさ」
「ん。……待たれてる、静かさ」
ヨゾラの言い当ては、いつも僕より一言深くて、一言怖い。
村では、規約がもう遊びになっていた。子どもたちが雪玉をぶつけ合いながら、『おとには、こたえない。』を節までつけて唱和している。長老の狙いどおりだ。決まりは、遊びにすると破られない。
その昼、村の入り口に、見慣れない旅装が立った。
上背がある。イワネさんほどの厚みはないけれど、雪の中に棒を立てたみたいに、姿勢がまっすぐだった。羽織った外套は旅塵で灰色になっていて、背中に、飾り気のない長い剣を負っている。
驚いたのは、髪だ。短く刈った髪が、若いのに霜が降りたような淡い色をしていた。その下の目は、冬の川みたいな薄い灰青。整った顔立ちなのに、表情の在庫が極端に少ない。
その人は、僕たちの前まで来ると、雪に踵を揃えて、深く、長く、頭を下げた。
「トウヤと申します。長老殿の文で参りました。——番人殿と、お見受けします」
低くて、平らな声だった。温度でいえば、井戸の水くらい。言葉の前に息を整える癖があって、話すたび、白い息がひとつ先に立つ。
「ルナです。あの、頭、上げてください」
礼が長い。数えたら、四つは呼吸をしていた。隣のヨゾラを「ヨゾラ殿」、駆けつけたイワネさんを「イワネ殿」と呼び、そのたびに深い礼をひとつずつ置いていく。礼儀が、体の芯まで染みている人だった。
イワネさんは髭の奥からしばらく眺めて、一言だけ言った。
「……いい立ち方だ」
それだけで、二人のあいだでは何かが済んだ。森の分担は、一言ずつの三往復で決まった。寡黙と低温は、話が早い。
寝泊まりは、村はずれの空き家と決まっていた。長老の手回しは、今回も、最初から決めていたような速さだった。
事情は、長老の文でぜんぶ伝えてあった。音のことも、規約のことも、そして——
「私の剣は、あれには届かないと、長老殿から伺っています」
トウヤさんは、背中の剣に触れもせずに言った。
「ですから、届く言葉をお持ちの方の、盾になりに参りました。獣と、道と、背中は、私が持ちます」
明くる朝の務めに、さっそく同行してもらうことになった。護衛としての、初仕事だ。
翌朝の出がけに、ツキヨが外套の胸元から顔を出して、新入りをじっと検分した。トウヤさんは動かず、検分が終わるのを待った。やがて、りん、とひとつ。合格、らしい。
祠の前で、僕は月鎖の祝詞を唱えた。ヨゾラはいつもの聞く係の位置にいる。今日は、聞く耳がひとつ多い。新しい観客の前の詠唱は、ずいぶん久しぶりだ。息を吸う前に、年季の入ったためらいが一瞬だけ顔を出す。
……出したまま、言い切った。務めに、恥の割り込む席はもうない。いつもどおり言い切ると、結び目が満ちた。音は、来ない。
振り向くと、トウヤさんは直立のまま、目を閉じて聞き終えていた。そして、詠唱そのものに向かって、深く礼をした。
「……見事な、口上でした」
「こ、口上」
「剣の型にも、名はあります。ですが、あなたの技名は、格が違う。名の一つ一つが、刃のように研いである」
技名。その二文字を、この人は一切の照れなく、まっすぐ言った。
「番人殿。一つ、お願いがございます」
トウヤさんは、雪に膝をつきそうな勢いで、また深く頭を下げた。
「——命名を、お願いしたい」
「…………はい?」
聞けば、こういうことだった。トウヤさんの剣は、師のない我流の一刀で、型に名がない。名のない技は、どれだけ磨いても、呼んでやれない。呼べない技に、礼は尽くせない——。
「恥ずかしく、ないんですか。技の名前を、その、口に出すの」
我ながら、間の抜けた質問だったと思う。トウヤさんは、初めて少しだけ首を傾げた。
「名を呼ばずに、どうやって技に礼を尽くすのですか」
絶句した。五年間、僕が布団の中で悶えながら封印してきた行為が、この人の中では、礼儀だった。
断る理由を三つ数えて、三つとも「恥ずかしい」しかなかったので、引き受けた。
場所は、村へ戻ってからにしてもらった。あの戸の前で、新しい名前を呼ぶ気には、なれない。
トウヤさんは薪割り台に丸太を一本立て、二歩下がり、剣を抜いた。抜き方に、音がなかった。
振り下ろしは、一度きりだった。まっすぐ、白い息ごと、天から地へ。丸太は音もなく二つになって、切り口が鏡みたいに光っていた。凄腕、という言葉の実物を、初めて見た気がする。
「いまの一刀に、名を」
まっすぐで、冬で、一度きり。僕の中のノートが、勝手に棚を開けた。候補が列を作って出てくる。躊躇のない自分が、いちばん怖い。封印しても、在庫は腐らないのだ。
「……『冬牙』。冬の牙で——冬牙」
トウヤさんの薄い目が、見開かれた。表情の在庫から、いちばん奥のやつが出てきた。
「——頂戴いたします」
新しい丸太を立て、二歩下がって、息を白く、長く整える。そして、この静かな人の声が、初めて張った。
「——『冬牙』!!」
剣が落ちた瞬間、刃の通り道に、白いものが走った。霜柱を蹴散らしたような、細い細い、冬の色。丸太は二つになり、切り口に薄く霜が降りていた。
「……いまの、白いのは」
トウヤさんが自分の剣を見て、僕も見た。ヨゾラだけが、静かに言った。
「……名前が、届いただけ」
言葉を本気にするこの世界で、本気の男が、本気の名を呼んだ。それだけのことだ。それだけのことが、剣に霜を乗せた。
短い名は、この世界の詠唱の長さだ。村の人が火を灯すのと同じ骨組みで、あの人の本気が、名前に乗った。僕の命名が、他人の剣で、動いてしまった。
祠の方角は、今日も静かだった。待たれている静けさの中に、新しい声がひとつ増えて、それは思ったより、心強かった。
夕暮れの広場の隅で、トウヤさんは新しい技名を、小さく何度も確かめている。「冬牙」「冬牙」——白い息と一緒に、大真面目に。
中学の僕が見たら、飛び上がって喜んだ光景だと思う。仲間だ。同志だ。
いまの僕は、ちょっと泣きたい。僕はいま、この世界に、中二の剣士を一人、爆誕させてしまったのかもしれなかった。
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