第47話 返答一打《へんじ》
「——内から、叩く、とな」
囲炉裏の火を挟んで、長老は僕たちの報告を、最後まで口を挟まずに聞いた。ヨゾラ、僕、イワネさん。三人ぶんの話が終わると、長老は湯呑みを置いて、深く息をついた。
「ようやった。まず、それを言うでの。開けず、応えず、締め直して帰ってきた。——番人の仕事は、それで上出来や」
叱られる覚悟はしていたけれど、褒められる支度はしていなかった。返す言葉に詰まる。隣でヨゾラの肩が、わずかに下がった。ひと晩ぶんの強張りが、そこで少しほどけたのだと思う。
規約の紙を、長老は両手で受け取った。『おとには、こたえない。』——ひらがなの大きな字を、皺の奥の目でゆっくりなぞる。
「ええ字や。……これは、わしの仕事にせい。今日じゅうに、全部の家に配る。子どもらには、遊びの決まりにして教える。決まりは、遊びにすると破られん」
配り役には、井戸端のおばさんの名前がすぐ挙がった。あの声量なら、一日で村の隅まで届く。怖い報せほど、明るい声で運ぶのがええんや、と長老は笑った。
「それから」と、長老は僕を見た。
「おまえさんの見立てを、聞こうかの。あれは、なぜ声をやめた」
僕は、昨日の夜の発見を話した。呼ぶな、としか言っていないこと。叩くな、とは言っていないこと。音は名前のない呼び声だ、ということ。話しながら、自分の声が硬くなるのがわかった。命令の穴は、僕の言葉の穴だ。
長老は、笑いも咎めもしなかった。
「言葉に穴があるのは、言葉が本物の証拠や。……唄もの、続きがあったんかもしれん。『とをたたくな』の、その先が」
途切れた唄——『とをたたくな』で切れて、その先を誰も覚えていない唄。ばあちゃんの帳面にもなかった続きが、どこかの年寄りの記憶の底に、切れ端だけでも残っているだろうか。
「探せますか」
「探すのが、年寄りの仕事や。古い者を回って、唄の切れ端を拾うてくる。——おまえさんらは、祠。わしは、唄。持ち場での」
イワネさんが、低く付け足した。
「森の外回りと、祠までの道は俺が持つ。雪の日も、道だけは生かしとく。……何かあったら、鐘を三つ鳴らせ。村じゅうに、そう決めさせる」
持ち場が、三つに割れた。祠。唄。外。子どもの僕たちに全部を持たせない配分を、大人二人は、最初から決めていたような顔でやった。
帰り際、長老が思い出したように言った。
「ああ、それとの。——人を、一人呼んだ」
「人、ですか」
「昔の伝手や。腕のたつ、若いのがおっての。剣の腕なら、わしの知る限りいちばんや。獣も増える冬やし、おまえさんらの背中を見る目は、多いほうがええ」
「……剣で、あれが斬れますか」
「斬れんよ」
長老はあっさり言った。
「斬れんもんの相手は、おまえさんの持ち場や。じゃが、斬れるもんの相手まで、おまえさんが持つことはない。——数日で着くじゃろ。着いたら、よろしゅうの」
祠への道は、朝のうちに誰かが雪を掻いてくれたらしく、昨日より歩きやすかった。「道だけは生かしとく」は宣言じゃなく、もう始まっている仕事だった。
祠に着く頃には、昼前の白い日が、雪の上に薄く伸びていた。
ツキヨが外套の胸元から顔を出して、戸を一度だけ見て、すぐ僕を見上げる。今日はまだ、音はしていない。それでも戸の向こうの気配は、昨日と同じ濃さで、そこにいた。
「編めた?」
ヨゾラが道の書を開きながら聞いた。昨日空けた、一行ぶんの余白のページだ。
「編めた。……ひと晩かかった」
嘘だ。ひと晩と、今朝の道すがら、ずっとだ。「叩くな」を僕の言葉にするのは、思ったよりずっと難しかった。短くて、まっすぐで、僕の祝詞の並びに最初からいたような顔で座る一行。何十回も口の中で組んでは、ほどいた。
借り物の言葉では、届かない。だから型は借りずに、芯だけを借りた。あの日の命令と同じ骨組み、同じ重さで。
最後に残ったのは、いちばん単純なかたちだった。
「言うよ。——変わったら、教えて」
「ん。見てる」
ためしごとの作法は、変わらない。戻せる手を握ったまま、試す。ヨゾラは道の書を胸に抱えて、僕の半歩後ろに立った。聞く係の、いつもの位置に。
深く、息を吸った。祝詞が、体の底から順番に立ち上がってくる。
「——お前はもう、誰の名も——二度と、呼ぶな。そして——」
ここからが、新しい一行だ。五年ぶんの言葉の網に、昨日の夜、僕が結んだばかりの結び目。
「——誰の戸も、二度と、叩くな!!」
言い切った、その瞬間。
結び目の月色が、ぐ、と深くなった。息を吸い込むみたいに。僕の言葉を、鎖が底まで飲み込んだのがわかった。届いた。そして、鎖の向こうの暗がりにも——
静寂。
長い、長い静寂だった。雪の落ちる音さえ、聞こえそうなほどの。
やがて。
……とん。
一度だけ、鳴った。
低く、短く、これまででいちばん静かに。急かすのでも、試すのでもなく——まるで、返事みたいに。
それきり、音は絶えた。
どれだけ待っても、二度目は来ない。戸は静まり、結び目は満ちた月色のまま、脈のひとつも打たない。祠の広場に、冬の昼の白さだけが、静かに積もっていく。
ヨゾラが震えない字で、道の書に書きつけた。
『いちぎょう、たした。おとは、やんだ。』
そこで手が、初めて止まった。その先を書くかどうか、迷ったのだと思う。
帰り支度のあいだ、ツキヨはずっと、戸に背を向けて座っていた。聞かない、という仕事を、あの子はあの子のやり方で、もう始めていた。
立ってはいられたけれど、膝の奥が細かく震えていた。一行ぶん重くなった祝詞の、一行ぶんの代金だった。
勝った、と思えたら、どんなによかっただろう。
僕の命令は、届いた。届いて、聞かれて——受け取られた。最後の一打は、抗議じゃない。承知した、の音だ。
言葉の通じない怪物のほうが、まだ、ましだった。
ヨゾラの手が、僕の袖を掴んだ。あの日と同じ場所を、あの日より強く。
「……いまの」
彼女の声は、囁きより細かった。
「——返事、された」
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