第46話 叩くな、とは言っていない
唱えているあいだ、世界は僕の声だけになる。
月鎖の祝詞は、長い。呼びかけ、来歴、命令。息継ぎの場所まで、もう体が覚えている。いつもなら、静かな森に言葉を置いていくだけの務めだ。
今日は、違った。
静けさが、聞いている。
戸一枚向こうの暗がりが、僕の言葉を一語ずつ、値踏みしているのがわかる。首筋が冷えていく。それでも、声は止めない。止めたら、不発だ。それだけは、もう骨まで覚えている。
隣で、ヨゾラが目を閉じている。聞く係の、いつもの定位置だ。あの日と同じ姿勢で、あの日と違う顔をしていた。呼ばれる恐怖じゃない。ただ聞かれている、という薄い寒さのほうだ。
外套の胸元で、ツキヨが息を潜めているのが、布越しに伝わった。
「——黙れ、名喰い!! お前はもう、誰の名も——二度と、呼ぶな!!」
言い切った。
結び目に、月色が満ちていく。痩せていた光が、編み目の芯まで戻っていく。翳りも、消えていた。封の厚みが、目に見えて増す。
膝は、笑わなかった。祝詞は僕の底をひと掬いしていったけれど、立っていられる。毎日いける、と体が判定を出した。
音は——来ない。
戸は、静かなままだった。誰も「勝った」とは言わなかった。この森で先に喜ぶとどうなるか、僕たちはもう知っている。
ヨゾラが外套の胸元を開いた。銀色の耳が、そっと出てくる。
僕はしゃがんで、あの子と目の高さを合わせた。
「ごめん、ツキヨ。ひと晩、ひとりで聞かせた」
あの子は僕とヨゾラを順番に見て、それから、りん、と小さくひとつ鳴いた。
朝から初めての、鈴の音だった。その一音で、広場の空気が、少しだけ人間の側に戻った。
「夜の見張りは、もうさせない」
「ん。夜は、家。……私の影で、寝ていい」
ツキヨの耳が、戸とヨゾラの間で二往復して、最後にヨゾラで止まった。決まりである。
帰り支度をして、広場を出る。季節の境の、手前で——
とん。
一度だけ、背中に届いた。
三人とも、振り返らなかった。森で呼ばれても、振り向くな。言い伝えの使いどころが、また一つ増えた。締めても、あれは、やめないらしい。
帰り道の雪は、朝より少しだけ緩んでいた。ヨゾラの外套の胸元から、銀の耳が半分だけ出て、来た道の方を向いている。見張りの子は、休んでいても見張りをやめない。その頑固さに、僕たちはひと晩ぶんの借りがある。
村の入り口に、イワネさんが立っていた。日暮れにはまだ間があるのに、鉈を提げたまま、道の先を見ていた。
「祠の戸が、中から叩かれてます」
余計な前置きは、あの人には要らない。イワネさんは髭の奥でしばらく黙って、一つだけ聞いた。
「——開いたのか」
「いえ。封は、締め直しました」
「なら上等だ。……開けさせるな」
それだけ言って、家の方へ顎をしゃくった。長老への報せは、明日の朝いちばんに三人で行くと決めた。歩き出した僕たちの背中に、低い声が追いついてきた。
「嬢ちゃんたち。——飯は、ちゃんと食え」
生きて帰る側の人の、いつもの順番だった。
言われたとおり、夕餉はちゃんと作って、ちゃんと食べた。怖い日ほど、湯気は濃くする。この家の流儀に、僕もだいぶ染まってきた。
夜。
暖炉の前で、ツキヨは丸くなって眠っている。ひと晩ぶんの緊張が、小さな体からゆっくり抜けていくのが、寝息でわかった。
僕たちは机に、二冊を並べた。ヨゾラの道の書と、ばあちゃんの帳面。
「ばあちゃんの代に、音の記録は?」
「……ない。締めた日付と、緩みの様子だけ。音のことは、一行も」
つまりこれは、ばあちゃんも知らない冬だ。唄だけが知っていた冬。頼れる先例は、途切れた唄の、あの二節しかない。
「わからないのは」
ヨゾラが、道の書の新しいページを見ながら言った。
「……どうして、声じゃないの。あれは、呼ぶもの。なのに今度は、呼ばない。音だけ」
そこだった。僕もずっと、そこに引っかかっていた。
名喰いは、呼ぶものだ。呼んで、応えた者を喰う。それがあれのやり方で、あれの全部だ。声なら持っている。母さんの声も、僕の偽物の声も。なのに、ひとつも寄越さずに、ただ——叩く。
口の中で、月鎖の祝詞をなぞった。呼びかけ、来歴、それから、最後の一行。
お前はもう、誰の名も、二度と——
「……呼ぶな」
声に出して、僕は自分の言葉に、突き当たった。
呼ぶな、と。
僕はあの日、そう命じた。あれの喉を、名前ごと縛った。命令は、効いている。あの日から、声は一度も来ていない。
——でも、それだけだ。
「僕は、『呼ぶな』としか、言っていない」
ヨゾラが顔を上げた。
「叩くな、とは——言っていないんだ」
沈黙が机の上に降りた。暖炉の火が、ぱち、と爆ぜた。
この世界が、僕の言葉を、いちいち本気にするのなら。命令の穴も、本気で突かれる。あれは声を封じられて、それでも呼ぶことをやめられなくて、命令の外側に残っていた呼び方を、ひとつだけ見つけたのだ。
音は、呼び声だった。名前のない、呼び声。
名前を取り上げられて、それでも、呼ぶのをやめない。執念と呼ぶには、あの音は静かすぎた。急がず、間遠く、規則正しく。——順番を待っているみたいに。
「……返事を、待ってる」
ヨゾラの声が、少しかすれた。
「叩いて。誰かが、応えるのを」
応えたら、どうなるか。それを、この家ほど知っている家は、世界のどこにもない。
だったら、夜の祠を空にするのは、間違いじゃなかった。呼び声のそばに、応えられる耳を置かない。ツキヨを連れて帰ったのは半分は情だったけれど、守りの理屈としても、たぶん正しいのだ。
ヨゾラは道の書を引き寄せて、規約のページに一行を書き足した。ひらがなの、大きな字で。
『おとには、こたえない。』
戸を叩き返さない。声もかけず、開けもしない。合図の一つも、返さない。明日、長老と村にも、これを配る。子どもにも届く言葉で。
「それと——月鎖に、一行足す」
僕はそう言って、息を吸った。祝詞にあとから言葉を継ぎ足すなんて、聞いたことがない。でも、あの祝詞は借り物じゃない。僕が編んだ、僕の言葉だ。編み直す権利は、僕にある。
「『叩くな』を、僕の言葉で。明日の務めまでに、編む」
「ん。……聞く係も、明日、いる」
いつもの返事が、いつもより深く効いた。
ヨゾラは『おとには、こたえない。』の下に、明日の行のために一行ぶんの余白を空けて、帳面を閉じた。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白かったら ↓の☆☆☆☆☆ をポチッと評価&ブクマしていただけると、とても励みになります(^^)
☆⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️☆




