第43話 賢者の秘薬《あまいやくとう》
朝、水瓶の縁に、薄い氷が張っている。
息が白い。吐くたびに、小さな雲が生まれては消える。渡りの烏はとうに南へ抜けて、干し場の仕事は御役御免になった。
落ち葉が終わり、森の色が減って、務めの日もつつがなく巡る。暖炉が夕方から現役に戻った。
畑仕事が減って、ツキヨの毛だけが増えた。冬支度は、毛皮組が早い。冬が、坂を下りてくる。
その朝、ヨゾラが起きてこなかった。
寝間を覗くと、布団から半分だけ顔を出して、こっちを見た。目が潤んで、頬に赤みがある。額に手を当てると、じん、と熱かった。
「……平気」
「その声で?」
「……起きる。畑」
「畑は逃げない」
観念したのか、布団が、もそ、と縮んだ。勝ちである。看病する側は、強気でいいのだ。
声がひどくかすれていた。それで押し切った。平気の基準がおかしい人である。
僕は問答無用で布団を掛け直し、水と、絞った布を枕元に置いた。看病してもらった借りを、返す番が来たのである。あのとき僕は熱にうかされて、ずいぶん情けないところを見せた。
濡らした布の畳み方も、白湯の冷まし加減も、あの夜に世話された側として覚えている。看病の手順は、看病されると身につくらしい。今日は僕が台所に立つ。
火を起こし、白湯を運んだ。ヨゾラは素直に半分飲んで、それから、布団の縁から目だけ出して、こっちを見た。何か言いたい目である。
熱のせいか、まばたきが減っている。……いや。これは、言い出す前の癖のほうだ。
「……なに?」
「…………あったかいの」
「白湯、あるよ」
「……じゃなくて」
長い間があった。彼女は視線を天井へ逃がして、それから、ほとんど聞こえない声で言った。
「…………ばあちゃんの」
そこで止まった。でも、足りた。ばあちゃんの、あったかいの。甘いやつ。——薬湯だ。彼女の甘党の、いちばん深いところにある味。
「作り方、聞いてる?」
首が布団の中で小さく横に振られた。
「……教わる前に」
それだけ言って、目を伏せた。教わる前に、いなくなった。聞きそびれた作り方は、この世界のどこにも売っていない。
——いや。一冊だけ、心当たりがある。
棚から、ばあちゃんの帳面を持ってきた。番人の引き継ぎと、父さんの魚の絵と、家のあれこれが同居している、あの一冊である。
ページを繰る。父さんの魚が泳いでいるページを過ぎ、務めの記録、道具の場所、効かなかった薬草のページ——ふと、目が留まった。結び目を締めた間隔が、几帳面に並んでいる。ばあちゃんの頃のその間隔より、この秋の僕たちは、すこし詰まっている。
……寒くなると、封も縮むのかもしれない。僕はページを先へ繰った。
あった。
『くすりゆ』。
ひらがなの題である。字が他のページよりすこし大きい。よく使うページの字は、大きくなるものらしい。
干した香草、刻んだ根、蜂蜜。材料と手順は、ちゃんと書いてある。ただ、肝心の分量の欄に、数字がない。かわりに、一行。
『あまさは 書かん。その子の 顔を見て 決める』
……この人は。台所からも、こういう字を撃ってくるのか。
香草は、夏の冷水で使った残りがある。刻んだ根は、井戸端のおばさんに一つかみ分けてもらった。事情を言うと、おばさんは何も聞かず、多めにくれた。
一杯目を作った。香草と根を煮出して、蜂蜜を落とす。湯気ごと寝間に運ぶと、ヨゾラは両手で器を包んで、一口、ゆっくり飲んだ。目を閉じる。開ける。
「……近い」
「近い?」
「近い。……でも、違う」
患者の舌は正直だった。甘党の舌が、思い出の在庫と照合している。蜂蜜だけでは、届かない何かがある。
僕は記憶の聞き込みに切り替えた。ばあちゃんは冬、台所で何をしていた?
ヨゾラは熱で重いまぶたのまま、天井を見て、探した。熱のある記憶は、輪郭が柔らかい。それでも、台所の音だけは残っていたらしい。
「……冬は。台所で、何か……煮てた。ことこと、長く」
煮る。冬に。長く。——納屋だ。
納屋には、北の集落で買った林檎が、まだ半分残っている。冬越しの貯えである。すりおろして、鍋に入れて、とろりとするまで煮た。
鍋が、ことこと言い始める。ばあちゃんが立っていた場所に、いま僕が立っている。そう思ったら、背筋がすこし伸びた。
香草の湯に、その甘さを溶かす。蜂蜜は、最後にひとたらしだけ。匙の先で味を見て、それから、寝間の顔を見に行った。
熱で赤い頬。まだかかる、の顔。——もう少しだけ、甘く。
帳面の一行の意味が、鍋の前でわかった。甘さは、数字ではなく、あの顔のためにある。
盆に載せて、こぼさないように歩く。この数歩が、今日いちばんの緊張だった。
二杯目を運んだ。
ヨゾラは器を受け取って、湯気を一度吸ってから、口をつけた。
動きが、止まった。
目を閉じたまま、二口目を、さっきよりゆっくり飲む。三口目の前に、器を胸のあたりまで下ろして、布団の縁を、ぎゅ、と握った。指が白くなるくらいの、ぎゅ、である。
「…………これ」
「合ってた?」
「……ばあちゃんの、冬の味」
それきり、しばらく黙って飲んでいた。泣いてはいなかった。ただ、器の中の湯気を、ずっと見ていた。
湯気の向こうに誰の台所が見えているのかは、聞かなかった。僕も黙っていた。
窓の外で、りん、と短い音がした。報せの音ではない。見舞いの音である。森の見張り番も、今日は近くにいるらしい。
器が空になる頃、ヨゾラの声は、少しだけ楽になっていた。頬の赤みも、熱の色から、湯気の色に変わっている。
「……林檎?」
「ん。すりおろして、煮た。ばあちゃん、冬はそうしてたんだと思う」
「……道理で」
道理で、冬のほうが甘かった。彼女はそう言って、器の底を名残惜しそうに見た。
甘党の原点に、林檎がいたのだ。北の坂道は、こんなところにも通じていた。
おかわりは鍋にある。二杯目のおかわりは、甘さをほんの少し下げた。顔がさっきより元気だったからである。この患者の回復は、たぶん早い。
「……作り方、覚えた?」
「ん。目分量まで」
「…………毎年、冬に」
「毎年、僕が作る」
言ってから、気づいた。祝う係と、作る係。僕たちは一年を、少しずつ分け合い始めている。
布団の中で、彼女は目を閉じた。それから、ほとんど寝入る間際の声で、言った。
「……冬が、贅沢になった」
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