第42話 穿星の魔弾《とりよけ》
「るーなー!! よぞらー!!」
畑の向こうから、名前が二つ、飛んできた。
この音量に、心当たりは一人しかいない。顔を上げると、街道を駆けてくる旅装が見えた。背中で括った明るい髪が、跳ねるたびに揺れる。風回りの見習い、三度目の来訪である。
「約束どおり!! 林檎の時期に、来た!!」
ナガレは僕たちの前で急停止して、胸を張った。旅靴の底が、春に会ったときより薄くなっている。夏じゅう、あちこちの空の下を歩いてきた靴である。
「ん。……おかえり」
ヨゾラが言って、ナガレが一瞬固まって、それからものすごい速さで笑った。ただいま、じゃなくて、おかえりと言われる村が増えるの、いいなあ。そう言って笑うので、こっちまでつられた。井戸端のおばさんが麦湯を出す手つきも、三度目ともなると早い。この村の客あしらいに、常連の枠ができつつある。
再会の挨拶もそこそこに、井戸端が騒がしいのに気づいた。おばさんと、熊のような大きい背中——イワネさんだ。二人の視線の先、共同の干し場の上を、黒い群れが旋回していた。
烏である。
「収穫どきになると、来やがる」
イワネさんが低く言った。干し場には、刈った麦と、割った栗が広げてある。
烏は頭がいい。人が追えば逃げて、離れればまた降りる。弓は数が足りず、案山子はとうに見抜かれた。毎年の知恵比べに、今年は数で負けているらしい。
「音と光で、脅かせればいいんですね」
気づいたら、そう言っていた。イワネさんがこっちを見る。ナガレもこっちを見る。ヨゾラだけが、先に察した顔で、小さく頷いた。
家から『禁忌の書』を取ってきた。めくるのは、まだ誰にも見せていない章である。
『魔弾』。
ページの隅には、人差し指を銃身に見立てた棒人間の落書きがある。五年前の僕は、杖より剣より、指で撃つ光の弾に憧れていた。
理由は覚えていない。たぶん、格好よかったからだと思う。
棒人間の隣には『反動なし』と注意書きまである。五年前の僕は、肩を痛める心配までしていた。用意周到である。
「聞きたいって言ったの、そっちだからね」
「言った!! 長いやつ!! 最後まで!!」
観客は最悪の布陣だった。大声の見習いと、寡黙な猟師と、当然の顔の彼女。逃げ場はない。僕は干し場の前に立ち、右手を上げて——人差し指を、空の群れに向けた。
指鉄砲である。十七歳が、衆人環視で、指鉄砲である。
五年ぶん寝かせた口上が、喉の奥で渋滞した。新品の詠唱は、最初の一回がいちばん重い。観客が多いと、なお重い。
体の芯に、火を入れた。
「番え——穿星の魔弾。百億の夜を貫いて落ちる、流れ星の切っ先。狙いを違えぬ光の一矢よ——我が指の示す先を、撃ち抜け!!」
言い切った瞬間、指先に銀の光が集まって、細く、鋭く、絞られた。
風が、止まっていた。
放つ。光の矢が一直線に空へ翔けて、群れの頭上で、ぱん、と弾けた。銀の光片が花のように散って、乾いた音が畑いっぱいに響く。烏の群れは悲鳴のような声を上げて、渦を崩し、森とは逆の空へ散っていった。
静かになった。
「…………今の!! 何!!」
「……あたしの風、いま、勝手にお辞儀してた」
ナガレが真顔で言った。詠唱のあいだ、風が伏せていたらしい。風の子の言い分では、そうなる。
静かになったのは一瞬だった。ナガレが飛び跳ねながら詰め寄ってくる。
当てなかったよね!? わざと外したよね!? あの狙いで外すほうが難しいよね!?
「当てない。脅すだけ」
息を整えながら、言った。この魔弾は、必中である。設定上、狙った的は外さない。だから僕が狙うのは、いつも的のいない場所だ。
烏にも、烏の仕事がある。うちの干し場でやられたら困る、というだけの話で。
「大したもんだ」
イワネさんが短く言った。それから干し場を顎で指して、しばらく頼めるか、と続けた。
渡りの群れが抜けるまでの、十日ほど。朝と夕、群れの来る刻限に一発ずつ。それで足りる、というのがプロの見立てだった。
弾も矢も減らない見張り番は、猟師の目から見ても上等らしい。番人に続いて、鳥よけの職も得てしまった。異世界の履歴書が、また一行伸びた。
「『百億の夜を貫いて落ちる』!!」
ナガレが両手を広げて復唱した。やめてほしい。本人の前で詠唱を再生するのは、この世界のどんな魔法より効く攻撃である。
いいなあ、それ、と彼女は本気の顔で言った。詠唱っていうか、歌みたいだ。あたしの『吹け』なんて、三十回言っても歌にならないのに。
「……三十回ぶん、ぜんぶ入ってるだけ」
ヨゾラが、静かに言った。ナガレがきょとんとして、それから、ゆっくり大きく頷いた。
そっか。長いんじゃなくて、詰まってるのか。
——静かな声と大きな声が、同じことを言っている。僕は熱い顔のまま、どこを見ればいいのか分からなかった。
昼は、庭で焼き林檎になった。
皮ごと蜂蜜で焼く例のやつを、ナガレは三つ食べた。裂けた皮の隙間で蜜がふつふつ言って、庭が秋の匂いになる。ヨゾラは自分の分の芯のきわまで、真剣に攻めていた。
都の学び舎の話を少しだけ聞いた。石造りの塔と、百人の見習いと、うるさくて広い食堂。今度ゆっくり話す、次に来るときまでの宿題ね、と彼女は言った。
次は、春。雪が解けたら、また北への風回りが始まるのだという。
ふと、足元で気配が動いた。
影から半分だけ出ていたツキヨの耳が、ふ、と森のほうを向いた。音を拾う角度で、ぴん、と立つ。一拍。二拍。それから何事もなかったように、耳は戻って、丸くなった。
「……どうした?」
りん。なんでもない、の音だった。森は、静かなままである。気のせいか。僕は膝の上の焼き林檎に戻った。
夕方、街道の入り口でナガレを見送った。
「春!! 絶対!!」
大きく手を振って、旅装が小さくなっていく。約束の棚に、春がひとつ載った。この村は、帰ってくる人と、また来る人で、少しずつ賑やかになっていく。
帰り道、ヨゾラが前を向いたまま言った。
「……いい弾だった」
どこが、と聞いたら、少し考えて、当てないところ、と言った。
必中の魔弾は、今日、一発も当てなかった。それでいい。
あれは僕の武器の中で、いちばん優しい一撃だ。誰も傷つけずに、守るものだけ守る。
——五年前の僕が聞いたら、ぬるいと怒るだろうか。それとも、ちょっとだけ、格好いいと言うだろうか。
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