第41話 潜影随行《おともします》
秋は、匂いで来る。
戸を開けた瞬間の空気が、ある日を境に、すん、と澄んだ。夏のあいだ、務めはつつがなく巡った。結び目は囁きで締まり、畑は実り、髪の三色は体の一部になった。道の書の目印の欄には、ヨゾラの字で季節が書き足されていく。
白い木——葉が色づき始め。夏には白く見えなかった木が、秋には赤くて逆に目立つらしい。目印にも、旬がある。山では栗が落ち始めたと、井戸端のおばさんが言っていた。秋の台所は、忙しくなる。
そして、行商が報せを置いていった。北の集落で、林檎の収穫が始まったと。
「——行く?」
「ん。約束」
春の終わりに届け物で行ったきり、あの坂の集落には行っていない。あのとき言われたのだ。秋、赤くなったら、今度は客としておいで。届け物の使いではなく、林檎を買いに行く客として。約束は、果たすためにある。
朝のうちに支度をして、ツキヨに留守を頼んだ。
「森、頼む。夕方には戻る」
りん。
額の紋をきらりとさせて、見張り番は了解の音を鳴らした。頼れる勤務態度である。僕たちは街道を北へ歩き出した。
秋の道は歩きやすい。
暑くもなく、寒くもなく、道端の草は種の色になり、空は一段高い。ヨゾラは歩きながら、道の書に小さな追記を入れていく。この橋、秋は滑る。この辻の柿、まだ青い。帳面は今日も、一年ぶんの道を覚えていく。
昼前、木陰でひと息入れた。水筒を回して、僕が座り直した、そのときだった。
りん。
と、足元で音がした。
僕とヨゾラは、同時に固まった。ここは村から半日の街道である。ツキヨは森で留守番のはずである。なのに音は確かに、すぐ足元から——正確には、地面に落ちた、僕の影から聞こえた。
影が、もぞ、と動いた。
僕の影の頭のあたりから、にゅっ、と銀の耳が二本、生えた。
「「…………」」
耳に続いて顔が出て、体が出て、最後に三日月の尻尾がぽん、と抜けた。ツキヨである。全身を出し切った見張り番は、僕たちの視線に気づいて、ぴた、と止まった。ばつが悪い、という顔を、兎は意外とする。
「……留守番は?」
りん。
「留守番は!?」
りんりん。
弁明の音色だった。翻訳するなら、たぶん、ついてきたかった、である。森を持ち場にする子は、遠出にはついてこられない。だからこの子は、ついてくる方法を、自分で見つけたのだ。——影の中に、入るという方法を。
「え、待って。影? 影に入れるの? いつから?」
ツキヨは答えず、実演した。すっ、と僕の影に沈む。影のふちが一瞬だけ、銀の燐光で光って、兎の形が消える。影の中から、りん、とくぐもった音。それから、また、にゅっと耳が生える。出たり入ったりを二往復して、どうだ、という顔をした。
ヨゾラが屈んで、影のふちにそっと指を近づけた。
「……あったかい」
影が、あたたかい。月の子の影は、夜の色をして、ひなたの温度がするらしい。怖い影とは、根っこから別物だった。
どうだ、ではない。いや、すごいのだが。
「……そういえば」
記憶の底から、自分の声が浮かび上がってきた。あの召喚の口上。僕が書いて、僕が唱えた言葉。
「『満ち欠けを数え、夜の見張りを務めし——小さき影よ』」
口に出して、脱力した。影よ、と呼んだのは、僕だった。詠唱で影と名指した子が、影に住めないわけがなかった。この世界は、僕の言葉を、いちいち本気にする。
「あなたの言葉、また、ほんとうになった」
ヨゾラがしみじみと言った。前髪で封じていた魔眼も、耳の内側の藍も、そして、この影も。五年前の僕が置いた言葉を、この世界は一つずつ、律儀に現実にしていく。ありがたいような、末恐ろしいような。
「よし、技名をつけよう。《シャドウ・ダイブ》」
「だめ」
即却下だった。ヨゾラいわく、この子の技に、僕の世界の音はいらない。影に入る、でいい。……ぐうの音も出ない。この子の技は、詠唱ではなく、暮らしの側の言葉でいいのだ。
代わりに、規約を二つ決めた。
一つ。勝手に潜らない。潜るときと出るときは、りん、と一声。ノックである。二つ。夜は、森。……これは前からの決まりで、足したのは一言だけ。日が暮れる前に、影からは出ること。影は移動と待機の技であって、寝床ではない。ツキヨは二つとも、りん、と請け合った。契約成立である。
「森の見張りは、どうする」
「昼のうちは、平気。……今日は、連れてく」
番人の判断が出た。かくして遠出の一行は、二人と一匹——正確には、二人と一つの影になった。
北の集落は、赤かった。
坂の上から見下ろすと、段々の畑が林檎の色に染まっている。春に来たときは、青い実が硬そうにぶら下がっていた。それが今は、枝ごとしなるほどの赤である。収穫のかごが行き交って、集落全体が、忙しくて、上機嫌だった。
「おう、来たか!!」
あのときのおじさんが、僕たちを見つけて手を上げた。約束、覚えていてくれたらしい。客として来ました、と言うと、おじさんは「春の使いっ走りが、秋は客か。出世したなあ」と笑って、いちばん赤いのを一つずつ、まず食べろとよこした。
かじる。……甘い。春の青とは別の果物だった。夏をまるごと呑み込んだ味がする。隣でヨゾラが無言で、もう一口いっていた。甘党の反応速度である。
人が多いので、ツキヨには先に聞いておいた。影で待つ? りん。すっ、と僕の影に沈んで、それきり静かになった。新技は、初日から実務投入である。人混みの苦手な見張り番には、椅子より上等の待合室らしい。
林檎を袋にひと山、買った。それから、集落のおばあさんが、荷を縛りながら言った。
「風回りの嬢ちゃんも、そろそろ南へ下りる頃だねえ」
思わず、顔を見合わせた。
「「——約束」」
声が揃った。林檎のころ、また通る。あの子はそう言って、大きく手を振って行ったのだ。秋が、約束の荷物を順番に届け始めている。
帰り道は、林檎の匂いがした。
袋の中身を何にするかの会議は、歩きながら三分で決着した。焼く。皮ごと、蜂蜜で。異論は出なかった。火加減大臣の顔が、すでに真剣だった。ツキヨの取り分をどうするかは、継続審議になった。
夕日が、道に長い影を落とした。
僕の影も、ずいぶん長く伸びている。その、伸びた影の頭のあたりに——耳が二本、生えていた。
影の中で、りん、と満足そうな音がした。
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