第39話 夜空の生まれた夜
「——この前の。ナガレに、聞かれたこと」
夕餉のあとの縁側で、ヨゾラがふいに言った。
夏の宵は長い。夕方、森から出てきたツキヨと道ですれ違って、りん、と一声の定時報告を置いて、また森へ戻っていった。見張り番の勤めは今日も律儀である。それから湯を使って、虫よけの香草を軒に燻して、二人で縁側に座った。そういう、いつもの夜のまんなかだった。
言い出す前のヨゾラは、まばたきが少なくなる。言葉を選んでいる顔だ。だから僕は湯呑みを持ったまま、待った。
「聞かれたこと……ああ。生まれた夜の、空」
「ん」
ヨゾラは膝の上で、湯呑みを両手で包んでいた。中身は井戸で冷やした香草の水で、この夏の定番になっている。それから、まっすぐ僕を見た。
「ルナには、先に教える」
「……いいの? ナガレには、いつかって」
「いつかは、いつか。……順番。あなたが、いちばん先」
理屈ではなかった。順位の宣言だった。ナガレへの「いつか」と、僕への「今」。そのあいだにある距離の意味を考えたら、湯呑みを持つ手が少し熱くなった。夏のせいにしておく。
「大した話じゃ、ないけど」
大した話じゃない、と前置きされる話は、経験上、だいたい大した話である。
「私が生まれたのは——一年で、いちばん夜の長い晩」
ヨゾラは空を見た。月はまだ昇らない時分で、星が先に、ぽつぽつと店を開け始めた空を。
「昔の人は、長い夜を怖がったって。日が短くて、闇が長くて、戸を早く閉める晩。……でも、ばあちゃんは言った」
そこで彼女は少しだけ、声を変えた。口の悪い、手の優しい人の声を、思い出しながらなぞる声だった。
「『夜の長い晩に生まれた子はな、夜に好かれとる。夜の全部を知って生まれてくる。怖がるもんか。——だから、夜空』」
夜の、全部を知って生まれてくる。
「それから、こうも。『おまえが生まれた晩はな、夕方に雪がやんで、星がようけ出とった。長い長い夜の、いちばん静かな時分に、おまえは来た』——って」
「……ばあちゃんの言うとおりかは、わからないけど。私は、夜が怖くない。……夜のほうも、たぶん、私が怖くない」
「名前は、ばあちゃんが?」
「ううん。つけたのは、母さんだって。私が母さんからもらった——最初のもの。ばあちゃんは、その訳を、何度も話してくれた人」
雪の白と、星の出た夜の藍。
隣の横顔を、そっと見た。銀の髪と、深い藍色の瞳。生まれた晩の色を、そのまま着て生まれてきたみたいな人だ、と思った。口には、しなかった。しまっておいて、いつか渡す。
息が、少し止まった。番人の家は、夜の家系だ。村は遠巻きにして、夜の側の家だと、少し怖がった。
その「夜」を、母親は娘の名前にした。世間が怖がるものを、まるごと抱きしめて、誇りに変えて、赤ん坊に贈った。
そしてばあちゃんはその訳が消えないように、何度でも孫に語った。名付けた人と、語り継いだ人。この家の名前は、二人がかりで守られてきたのだ。
なんという名付けだろう。
「いい名前だ」
気づいたら、言っていた。そういえば、ナガレにもこの人は「いい名前」と言った。短い褒め方に込める本気を、僕はいま、もらう側で知った。ヨゾラは湯呑みに目を落として、「ん」と小さく言った。耳が、ちょっと赤かった。
「母さんのことは、前に話した。……父さんの話は、初めて、する」
「……うん」
「生まれた晩のことは、ばあちゃんから聞いた。父さんのことは——帳面で、読んだ」
父さん。
初めて聞く言葉だった。ヨゾラの口から、母の話をまとまって聞いたのは、一度だけ。父の話は一度もなかった。
「父さんは、外から来た人。行商の縁で、この村に来て、番人の家に入った。……私が歩くより前に、流行り病で。だから、顔は知らない。声も知らない。——字だけ、知ってる」
写真のない世界だ。顔は、残らない。残るのは、字と、絵と、誰かの語る話だけ。
「……どんな字?」
聞き返した自分に、少し驚いた。出てきたのが、『ごめん』でも『大丈夫?』でもなく——字。その質問に、ヨゾラは初めてちゃんと笑った。
「ばあちゃんより、下手。……そのかわり、魚の絵が、上手。帳面の隅に、釣った魚の絵がいっぱいある。大きさも書いてある。たぶん、ちょっと大きめに」
釣果を盛る父の帳面。会ったことのない人の、人柄が絵と数字で残っている。悲しみを湿らせずに受け取る方法を、この家の帳面は、最初から知っているのだった。
「ばあちゃんは、父さんのページを破らなかった。……『下手な字も、家のうちや』って」
ばあちゃんの声が、また一つ増えた。会ったことのない人たちが、この家には、ちゃんと住んでいる。
「外から来た人が、この家に入って。……それで、あなたも」
ヨゾラがこっちを見た。
「外から来た人。この家に、入った」
「…………」
行商の縁で来た人と、儀式の失敗で来た僕。入口はずいぶん違うけれど、迎えられ方は、たぶん同じだ。
番人の家は、外から来た人を迎える家系らしい。血ではなく、帳面と、名前と、囲炉裏の火で、家族をつなぐ家。
僕はその末席に、いつのまにか座っている。座り心地が良すぎて、いまさら立てそうにない。
頭の中で、そっと数えた。一年でいちばん夜の長い晩。僕の世界の暦なら、十二月の下旬——冬至だ。夏の縁側から見ると、ずいぶん遠い。でも。
「じゃあ、君の誕生日は——これから来る」
「ん」
「祝う。今年から、毎年、僕が祝う」
六月六日の返礼を、半年越しに予約した。ヨゾラはまばたきをして、それから、ふ、と笑った。
「……気が早い」
言ってから、彼女は少し黙って、湯呑みの水面を見た。
「……去年の冬は、一人で。夜が、長かった」
ばあちゃんが逝って、最初の冬。一年でいちばん長い夜を、この人は一人で越えたのだ。僕は息を吸って、なるべくいつもの声で言った。
「今年からは、長いほど得だよ。——一緒にいる時間が、増える」
ヨゾラが顔を上げた。それから、ゆっくり、笑った。
「……ん。得」
「半年切ってるので。もう準備期間です」
何をするかは、これから考える。木苺の季節はもう終わる。冬の甘いものを、探しておかなくては。
「そう。……それと」
湯呑みを置いて、彼女は少しだけ、胸を張った。めずらしい顔だった。
「私、先に十八になる」
「……え」
「半年だけ、年上」
得意げ、という表情を、ヨゾラの顔で初めて見た気がする。同い年ではあるのだ。ただ、順番だけ、彼女が先。それだけのことを、この人はいま、ちょっと自慢している。
「じゃあ敬語のほうがいいですか、先輩」
「ん。……冗談」
「どっちですか」
笑ってから、ふと聞いてみた。
「冬って、どんな? この村の」
「雪。……あとは、静か。夜が長くて、囲炉裏の季節」
「雪って、積もる?」
「屋根まで、たまに」
「屋根まで!?」
冬の話を、夏の縁側でする。遠い誕生日の、下見だった。
「十八になったら、したいこと、ある?」
「…………考えたこと、なかった」
「じゃあ、半年で考えておいて。誕生日に、聞く」
「ん。——宿題」
番人の帳面に、書かれない宿題が一つ、増えた。
考えたことがなかった、という答えのほうが、僕には少し刺さっていた。この人はたぶん、自分の願いを数える習慣が、まだ薄い。ずっと、そういう順番で生きてこなかったのだ。——半年かけて、増やしてもらおう。
笑いながら、夜が深くなっていった。星が増えて、虫の声が満ちて、湯呑みが空になった。
話し疲れて、二人で黙った。心地のいい沈黙だった。隣で、銀の髪が夜風に揺れた。
一年で、いちばん長い夜。
昔の人はそれを怖がって、この家の人たちはそれを誇りに変えて、隣のこの人は、その名前を毎日生きている。夜の全部を知って生まれてきた子は、僕の隣で、僕の知らない星の名前を数えている。
季節の止まったあの場所を見てから、冬という言葉には、少し身構えていた。それが今夜、楽しみの側へ引っ越した。
冬が来るのが、待ち遠しい。
生まれて初めて、そう思った。
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