第38話 星辰異名録《おしえっこ》
街道の向こうで、砂がくるりと渦を巻いた。
見覚えのある渦だった。手を振るみたいに巻いて、ほどけて、また巻く。僕とヨゾラが顔を見合わせるのと、村の子どもたちが叫ぶのは、ほとんど同時だった。
「かぜのおねえちゃんだー!!」
行商の荷馬車より先に、声が届いた。
「約束、覚えてる!?」
荷台から飛び降りるなり、ナガレは開口一番それだった。挨拶より約束。日に焼けた顔は前より少し濃くなって、括った髪は前より少し長い。旅をしている子の時間の流れ方だった。
「覚えてます。……その、長いのと、星の」
「よし!! じゃあ長いのから!! いちばん長いやつ!!」
話が早い。早すぎる。おばさんが「まずお茶でも」と言う間もなく、僕は家の前に連行された。村の皆さんが、心なしか嬉しそうに集まってくる。見世物ではないのだが、この村において僕の詠唱は、半分くらい年中行事になっている。
観念して、僕はいちばん見栄えのするやつを選んだ。家を守る、銀の膜。
息を吸う。
「集え、月影に伏す七つの盾。千の夜を守りし白銀の円環——我が家を、界の内に匿え——《月輪結界》!!」
言い切った瞬間、家がまるごと、薄い銀の膜に包まれた。
昼の光の中でも、膜はうっすらと月の色に光る。子どもたちが歓声を上げ、おばさんが「今日も冴えてるねえ!!」と拍手をした。年中行事の風景である。そして、ナガレは——
静かになっていた。
風に触れるときの、あの顔で、膜のふちをゆっくり一周した。指先を近づけて、離して、目を閉じて、開けた。
「……すごい」
声が、いつもの半分の音量だった。
「風が、膜に沿って流れてる。ぶつからない。乱れない。膜のかたちのまま、するーって……こんなに風を綺麗に流す結界、学び舎の先生でも編めないよ。キミ、ほんとに何者!?」
「旅の魔法使いです」
「絶対うそだ!!」
音量が戻った。僕は結界を解いて、そそくさと解散を促した。専門家の分析は、素人の歓声より、心臓に悪い。
解散のあと、ナガレはふと僕たちを道の端に引っ張った。めずらしく、声が小さかった。
「……ねえ。ひとつだけ、聞いていい? 前に来たとき、この村の風、行儀がいいって言ったでしょ。あれから旅のあいだ、ずっと考えてたの。この村の風——森を、よけてる。ううん、違う。森の真ん中のどこかを、そーっと迂回してる。風がああいう流れ方をするのは、大きな結界か……大きな、なにかが、いるときだけ」
まっすぐな目だった。
「あの森、なんか、いるでしょ」
どきり、とした。ヨゾラと目が合う。嘘はつきたくない。全部も、言えない。先に口を開いたのは、ヨゾラだった。
「——森は、番人が守ってる。昔から、ずっと。……それで、足りる?」
ナガレは僕たちの顔を順番に見て、それから、にっと笑った。
「足りる!! 番人!? 何それかっこいい!! ……で、それ以上は、聞かない方がいい話?」
「ん」
「わかった!! 詮索しない!! 友達のひみつは、ひみつのままでいいの!!」
それだけだった。好奇心のかたまりみたいな子が、好奇心より先に、友達を取った。村の口裏の上に、もう一本、細くて強い線が引かれた気がした。
夕方、ナガレはおばさんの家に荷を下ろした。今回は一泊して、明日の朝、行商と一緒に発つらしい。夕餉の後、僕たちは村はずれの草地に、三人で寝転がった。約束の、二つ目である。
夏の夜空は、贅沢だった。
「じゃあ、始める」
ヨゾラが少し改まった声で言った。道の係にして、今夜だけは、星の先生である。
「あれが、種まきの三つ星。あれが昇ったら、豆を植える。あっちが、井戸の柄杓。傾きで、雨を占う」
指がまっすぐ空へ伸びる。ナガレは寝転がったまま、素直に「へえー!!」と声を上げた。
「実用!! 星が暦なんだ!! いいなあ、それ」
「都は、違うの?」
「都はね、星は星、暦は暦。……あ、でも」
ナガレが、がばっと起き上がった。
「三つ星、都にもあるよ!! 同じやつ!! 都では『旅人の帯』って呼ぶの。旅支度の帯を締めた形だから。夜にあれが見えてると、旅人は迷わないって」
同じ星に、違う名前。
種まきの三つ星と、旅人の帯。土に生きる村は種まきを見て、道に生きる都は旅支度を見る。同じ光を見上げて、それぞれの暮らしの形に、それぞれの名前で呼ぶ。——長老の水脈の話が、ふいに頭をよぎった。言葉は、地面の下で繋がっている。怖い形でも、こういう、あたたかい形でも。
「じゃあ、教えっこしよ!! ヨゾラがこっちの名前、あたしが都の名前!!」
「ん。……教えっこ」
ヨゾラの声がちょっとだけ弾んでいた。それから二人は、空を指しては名前を交換し始めた。柄杓は、都では「大匙」。夏の大きな赤い星は、こっちでは「囲炉裏の火」、都では「灯台」。ヨゾラは全部、道の書に書き留めていく。同じ星の欄に、二つ目の名前が増えていく。
——気づいたことが、ひとつある。
ヨゾラの授業に、冬の鎌は出てこなかった。
帳面にはある。書いたのは彼女自身だ。でも、今夜のページには載せない。途切れた唄も、物騒な言い伝えも、旅の子の土産話には渡さない。道の係は、教えるページと、載せないページを、ちゃんと分けている。番人の家の子の、静かな仕事だった。
そのとき、空を、光がすっと走った。
「あ!! 流れた!!」
ナガレが跳ね起きて、指をさす。流れ星は一瞬で消えて、あとには元どおりの星空が残った。
「えへへ。……あたしの星」
「ナガレは、生まれた夜の空が、名前なんだ」
僕が言うと、彼女は「そう!!」と胸を張った。流れ星の夜に生まれたから、ナガレ。名前に空を持っている子が、ここにもう一人いる。
「いい名前」
ヨゾラが、ぽつりと言った。短くて、まっすぐで、彼女のいちばん本気の褒め方だった。ナガレは一瞬きょとんとして、それから、くしゃっと笑った。
「……ヨゾラは? 生まれた夜、どんな空だったの?」
来た、と思った。夜空、という名前の子の、生まれた夜の空。僕もまだ、聞いたことがない。ヨゾラは少しだけ黙って、空を見たまま言った。
「……いつか、教える」
「えー!! 気になる!!」
「いつか。……次の、そのまた次くらいの、いつか」
もったいぶった言い方ではなかった。大事なものを、渡す日を選んでいる言い方だった。ナガレも、それ以上は押さなかった。友達のひみつは、ひみつのままでいい子なのだ。
帰り際、草地の入口で、ナガレは大きく伸びをした。
「次は、秋!! 北の集落の林檎のころ、また通るから!! そのときは、いつか、聞かせてよね!!」
約束が、また増えた。この子が来るたび、約束が増えていく。ヨゾラは道の書を胸に抱えて、小さく、でもはっきり、言った。
「ん。——約束」
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