第37話 時針空転《ためしごと》
三度目の務めは、もう、事件ではなかった。
朝ごはんを食べて、支度をして、戸締まりをして、森へ入る。持ち物の点検はヨゾラが諳んじているし、道は僕の足が覚えている。祠へ行くことが、畑に出るのと同じ棚に並び始めている。ばあちゃんの帳面が言う「務め」とは、たぶん、こういう温度のことなのだと思う。
森は盛夏に入っていた。
下草は腰の高さで、木漏れ日は白く、虫の声が層になって鳴いている。ヨゾラは歩きながら道の書を開き、目印の欄に季節を書き足した。白い木——葉が茂って、白く見えない。夏のあいだの注意書きである。帳面はこうやって、一年ぶんの森を覚えていく。
祠の広場で、ツキヨが待っていた。
軒下からととっと駆けてきて、りん。額の紋はほとんど満ちた円で、尻尾の欠けも、あとわずかだった。真ん丸まで、あと二日。見張り番の体は、今日も正確に空を写している。
出迎えを受けて、僕は囁き版の魔眼を開いた。結び目はひとまわり細い。頃合いだ。
今日の月鎖は囁きのままで、底まで通った。
叫ばず、静かに、呼びかけて、命じる。結び目が満ちて、輪郭が研がれる。言い終えたとき、額に汗もかいていなかった。務めの言葉は、ここまで手に馴染むものらしい。
「——で、今日の本題」
ヨゾラが道の書を開いた。
新しい見出しが、まっさらなページの頭に書いてある。『ためしごと』。その下に、几帳面な字で一行——「六ノ刻は、封に効くか」。
「調べる価値、あるって言った」
言った。石積みを直したあの日の、宿題である。もしこの実験がうまくいけば、封そのものを魔法で強くできる。務めの間隔は延びて、祠を空けられる時間が増えて——遠くへ行ける日が、近づく。
ひとつだけ、先に決めた。
「六は、直す針だ。壊す針じゃない。……それでも、結び目に少しでも変な気配が出たら、すぐ中断して、月鎖を唱え直す。いい?」
「ん。私は、見てる。——変わったら、言う」
番人二人と見張り一匹の、実験の作法である。封は遊び道具ではない。試すなら、戻せる手を握ったまま試す。
僕は頷いて、魔眼を開いたまま、結び目の前に立った。
息を吸う。二枚目の針を、今日は、道具ではなく問いとして使う。
「回れ、時計仕掛けの黙示録。時の理よ、我が名のもとに傅け——第六の針は、繕え。《六ノ刻・修繕》!!」
言い切った。針は、確かに立った。
そして——空を、切った。
手応えが、ない。
石積みのときは、針の先が「壊れ」に吸い込まれる感触があった。欠けた角、開いた隙間、あるべき場所を失った石。直すところへ、針が勝手に飛んでいった。
今日は違う。針は結び目の周りをぐるりと巡って、直すところを探して、探して——見つけられずに、ほどけて消えた。
「……効かない」
「壊れてない、から?」
ヨゾラの言葉に、僕は魔眼の視界で結び目を見つめ直した。そのとおりだった。
緩んではいる。でも、どこも壊れていない。楔は刺さったまま、環は繋がったまま、ただ全体が、少しずつ細くなっていく。
これは「壊れ」じゃない。時が経った、というだけのことだ。
「六の針は、乱れをほどく針だ。……でもこの緩みは、乱れじゃない。祠が、年を取ってるだけなんだ」
積まれた時間を巻き戻せない針は、経った時間も、巻き戻せない。石積みの日に「それがいい」と思った理屈が、今日はそのまま、こちらの壁になって立っていた。魔法は、筋が通っている。通っているから、ずるができない。
「実験、失敗」
僕が言うと、ヨゾラは首を横に振った。
「成功。——『効かない』が、わかった」
鉛筆がためしごとの欄に走る。『六ノ刻、封に効かず。緩みは、壊れに非ず。』理科の実験ノートみたいな一行が、番人の帳面に刻まれた。
「ばあちゃんの帳面にも、あった。効かなかった薬草のこと。腹痛に効くと聞いて試して、効かなくて、『効かぬ』って書いてあった。……効かないと知ってることも、次の番人の道具」
失敗を書く帳面は、失敗を忘れない家系の帳面だ。僕は少し、姿勢を正した。
——ただ、収穫は「効かない」だけでは、なかった。
「ねえ、ヨゾラ。さっき、見えた?」
「ん?」
「針が空を切った瞬間。結び目が、一瞬だけ——明るくなった」
魔眼の視界の中で、確かに見えたのだ。六の針が結び目に触れようとしたその刹那、月鎖の光が、ふ、と膨らんだ。直りはしなかった。でも、無視もされなかった。まるで、呼びかけに顔を上げるみたいに。
りん、と足元で音がした。
ツキヨだった。実験のあいだじゅう、緊張の面持ちで結び目を見つめていた見張り番が、耳をぴんと立てて、結び目と僕を交互に見ている。感じたのだ。この子にも。月の眷属の肌が、同じ一瞬を拾っていた。
「……聞いてたんだ」
口に出すと、腑に落ちた。
月鎖は僕の言葉で編んだ鎖だ。僕の声から生まれて、僕の声で締まる。だったら、僕がそばで唱える言葉に、耳があっても——おかしくない。
直せ、という命令は管轄違いで断った。でも、聞いてはいた。律儀な鎖である。
誰に似たのか。——ヨゾラが、ちらっとこっちを見た。何も言われていないのに、心当たりがあるのが悔しい。
「封を強くする道が、もしあるなら」
考えながら、僕は言った。
「修繕じゃない。たぶん——名前とか、約束とか、そっちの側だ」
名は、封にもなる。あの日の言葉が、頭の隅で小さく点滅した。
まだ、形にはならない。でも、道の入口の匂いくらいは、した気がする。
ヨゾラはためしごとの欄に、もう一行書き足した。『鎖は、声を聞く。』
夏の務めは、喉が渇く。僕たちは水筒を回し飲みして、木陰でひと息ついた。それから帰り支度をして、ツキヨに蜂蜜水を出した。緊張の反動か、今日はいつもの倍の速さで飲み干して、りんりん、と満足の音を鳴らした。見張り番の労働環境は、当番人たちが責任を持って守っている。
帰り道、木漏れ日の下で、僕はちょっとだけ笑った。
「遠出は、お預けか」
「ん。……でも」
ヨゾラは道の書を抱え直して、前を向いたまま言った。
「『効かなかった』が、一行増えた。——ばあちゃんの帳面と、おそろい」
その言い方が、あんまり嬉しそうだったので、僕は空振りの針のことを、今日の勝ち星に数え直すことにした。
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