第3話 いまこそ顕現せよ
第3話 2日目(朝) 野原で初完唱・岩を半分熔かす
「じゃあ、聞かせて」
朝一番、である。
スープの椀を置いた僕に、ヨゾラは当たり前の顔でそう言った。昨日の夜のあれは、社交辞令とか、その場の流れとか、そういうものではなかったらしい。
「き、聞かせてって、何を」
「詠唱。最後まで」
「なんで!?」
「聞きたいから」
即答だった。理由が理由になっていない。でも、ヨゾラの「聞きたい」は、まっすぐすぎて、反論の足場がどこにもない。
連れて行かれたのは、家の裏手の野原だった。村からは木立で隠れて見えない。人払いの気遣いだけは、ありがたい。ありがたいが。
「的、あれでいいと思う」
ヨゾラが指さした先に、ひび割れた岩がある。昔から転がっているだけの、誰のものでもない岩らしい。
そして彼女は、少し離れた切り株に、ちょこんと座った。膝に手を揃えて、背筋を伸ばして。完全に、聞く体勢である。
「あの、そんなにちゃんと座られると」
「ん?」
「……なんでもないです」
観客一名。会場、朝の野原。演目、僕の黒歴史。逃げたい。
でも、昨日の言葉が、まだ耳に残っている。あなたのための言葉だった、と言われた、あの声が。あれを言われて逃げたら、たぶん僕は、元の世界で儀式をした日より、もっと自分を嫌いになる。
腹を括った。
「い、いくよ」
右手を岩に向ける。息を吸う。
「わがみぎうでにねむりしぐれんのけものよせんねんのふうをときいまこそけんげんせよ」
早口言葉であった。
右手の先に、ぽしゅ、と小さな火の粉が散って、消えた。以上である。
「……いまの、灯れより弱い」
「言わないで!?」
わかっている。自分でもわかっている。恥ずかしさに負けて、意味を捨てて音だけ流した。そういうのは、この力には通じない。川辺で獣に襲われたときは、無我夢中で、それでも一言一言、あの頃の僕のまま唱えていた。だから熱が集まった。
つまり、この魔法は——本気でなりきらないと、出ない。
最悪の仕様だった。
「ルナ」
ヨゾラは、切り株から動かない。笑ってもいない。
「昨日の川辺のは、もっと、ちゃんとしてた」
「ちゃんとした詠唱って何!?」
「言葉が、あなただった」
……この子は、たまに、心臓に悪いことを平然と言う。
深呼吸を、一つ。二つ。
いいだろう。やってやる。どうせこの世界に、僕の過去を知っている人間はいない。いや、目の前に一人、川辺の一部始終を聞いた人がいるが、その人は笑わないと、もう知っている。
右手の包帯を、巻き直す。左手を、そっと添える。あの頃、鏡の前で百回はやった構えだ。
——降りてこい、あの日の僕。
「我が右腕に眠りし《紅蓮の獣》よ」
声が、朝の野原に通る。恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。でも、止めない。
「千年の封を解き、いまこそ顕現せよ——!」
右手が、燃えた。
比喩ではなく、視界が赤で埋まった。掌から吹き出した炎が獣のかたちに膨れ上がり、咆哮じみた音を立てて岩に喰らいつく。
轟音。
風が僕の髪を後ろに攫って、それから、静かになった。
岩が、消えていた。正確には、半分になっていた。断面が、赤く熔けて光っている。
「…………え」
は? いや、待って。聞いてない。あの獣、こんなに強かったの? 川辺では一度も最後まで言えなかったから、知らなかった。言い切ったら、こうなるの?
おそるおそる振り返ると、ヨゾラが立ち上がっていた。
切り株から、いつの間にか。藍色の目が、まん丸になっている。
「……こんな火、見たことない」
「え、えっと、ごめん、岩」
「村の大人でも、岩は割れない。熔かすなんて、聞いたこともない」
ヨゾラは、半分になった岩と、僕とを見比べて。それから、すとん、と結論の声で言った。
「ルナの言葉は、長いんじゃなくて、強いんだ」
強い。
あの黒歴史が。捨てるはずだった、封印するはずだった、あの痛い痛い言葉たちが。
……強い、のか。
どんな顔をすればいいのかわからずに突っ立っている僕に、ヨゾラは一歩近づいて、言った。
「ねえ。もう一回」
「もう!?」
朝の野原に、焦げた草の匂いが立ちのぼる。その匂いの向こうで、彼女の藍色の目だけが、星を見つけた夜みたいに輝いていた。
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