第2話 詠唱の理《いちごんでたりる》
差し出された手を、僕はおそるおそる掴んだ。
ヨゾラの手は、川の水で少し冷たくて、でも力は迷いなく、僕を引っ張り上げた。
「立てる? 家、すぐそこだから」
「え、いや、あの……いいの? 僕、怪しいよ。どう見ても」
「怪しいね」
あっさり言われた。否定してほしかったわけじゃないけれど、即答されると、それはそれで傷つく。
「怪しいけど、泥だらけで、行くところがなさそう。だったら、連れて帰る。それだけ」
ヨゾラは桶を持ち直して、さっさと歩き出す。言葉は短い。なのに、置いていかれる気がしない歩幅だった。
慌てて追いかけようとして、足元で、ぱさりと音がした。
見下ろして、心臓が止まりかけた。
黒いノートが落ちていた。表紙に銀色のペンで『禁忌の書』と書いてある、あのノートが。儀式の前に、最後にひと目だけ読み返すつもりで、スカートのポケットに突っ込んでいたやつだ。逃げ回っているあいだに、ずり落ちかけていたらしい。
「それ、落ちたよ」
「なんでもない!!」
拾い上げる速度は、たぶん今日いちばんの俊敏さだった。ついでにポケットの奥で、かちゃりと固い音がする。カラコンのケースだ。邪眼用の、赤いやつ。封印するはずだった黒歴史の装備一式が、僕と一緒に、そっくりこの世界まで来てしまっている。
捨てられる側が、捨てる側に、ついてきた。あれだけ崖を転げ回って、よく失くさなかったな——いや、ノートは今まさに落ちた。落ちて、僕は迷わず拾った。封印とは、いったい。
……なんの呪いだ、これは。
「見ないから、安心して」
ヨゾラは前を向いたまま言った。見ないから、ということは、見えていたということでは。突っ込む勇気は、なかった。
村は、森を抜けてすぐだった。藁ぶきの屋根が十数軒、夕暮れの色に沈んでいる。ヨゾラの家は村外れの一軒で、彼女は「いまは、一人だから」とだけ言った。短い言葉の奥に何かある気がしたけれど、今日会ったばかりの僕が踏み込める場所ではなさそうだった。
家の中は、もう薄暗かった。
ヨゾラは壁のランプに向かって、なんでもないことのように、言った。
「灯れ」
ぽ、と。
ランプに、火がついた。
「……え」
「? 座って。いま、お湯を——」
「待って待って待って。今の、何? 魔法?」
「そうだけど」
「一言で!?」
ヨゾラが、不思議そうに首をかしげる。その仕草で、僕は理解してしまった。この世界では、これが普通なのだ。
「詠唱は、短いほどいいって教わる。長いと、その分だけ隙になるから」
「…………」
「戦うときなんて、その一言すら惜しい。だから、みんな削れるだけ削る」
当たり前のことを説明する声だった。当たり前なのだろう。獣は詠唱を待ってくれない。この世界の人たちは、それを知っているから、言葉を削って削って、一言まで磨き上げた。
じゃあ、あれは何だ。
我が右腕に眠りし紅蓮の獣よ、千年の封を解き、いまこそ顕現せよ——あの、息継ぎまで必要な長口上は。
この世界でも、異常なのだ。僕の魔法だけが、削れない。あの恥ずかしい言葉を、一言残らず、全部言わないと出ない。
「僕の、は……」
声が勝手に小さくなる。
「僕の魔法は、長いんだ。すごく。あれ、全部言わないと、出なくて」
言ってしまってから、目を合わせられなくなった。川辺で聞かれた時よりも、なぜか今のほうがこたえた。あのときは事故だったけれど、今のは自白だ。
ヨゾラは、ランプの火を見ていた。それから、僕を見た。
「知ってる。聞いてたから」
「うぐ」
「変だとは、思った」
「嘘でも否定してよ!?」
「でも」
ヨゾラは、ランプを指さした。小さな火が、彼女の藍色の目の中で揺れている。
「わたしの『灯れ』は、火を点けるためだけの言葉。削って、削って、それしか残ってない。……あなたのは、違った」
「違うって、何が」
「あなたの言葉は、火のためじゃなくて、あなたのための言葉だった。ぜんぶ残ってた。だから、綺麗だった」
息が、止まった。
この世界の基準でも変で、元の世界の基準でも痛くて、どこに行っても居場所のないあの言葉を、この子は——削られていないから綺麗だと言った。
何か言わないと、と思うのに、喉の奥が熱くて言葉にならない。俯いた僕の前に、ヨゾラは湯気の立つカップを置いて、それから、少しだけ笑った。初めて見る笑い方だった。
「ねえ、ルナ」
「……何」
「今度は、途中で止めないで。——最後まで、聞かせて」
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