第1話 封印の儀《そつぎょうしき》
中二病を卒業する儀式は、本物だった。
——そんなこと、唱えた本人の僕が、一番信じられていない。
ほんの数分前まで、僕は自室にいた。床に赤いチョークで魔法陣を描いて、中央に「結月」と自分の名前を書き込んで——封印する対象は、正確に指定しないといけない気がしたのだ——右手に包帯を巻いた。この包帯に意味なんてない。ないけれど、巻かないと始まらないのが、僕という人間の面倒なところだった。
高校二年、春。さすがにもう、痛い。自分でもわかっている。スカートの膝を折って魔法陣の中央にしゃがみ込む、女子高生にもなって。だから今日で全部終わらせる。封印する。そのつもりで、最後の一言を口にした。
「我が真名の封印、いまここに——」
瞬間、足元の魔法陣が、描いた覚えのない光を放った。
視界が白く飛んで——気がつけば、僕は見知らぬ森の中に立っていた。
湿った土の匂い。頭上で鳴く、聞いたことのない鳥。自室の天井も、赤いチョークの線も、どこにもない。
「……え?」
夢だ、と思いたかった。思いたかったけれど、頬をつねると普通に痛い。
卒業のはずだった。終わらせるはずだった。それなのに、儀式は効いてしまった。よりによって、一番ありえない方向に。
そして、都合の悪いときに限って、そういうものは現れる。
茂みが割れて、犬より一回り大きい、牙のある獣が出てきた。目が赤い。明らかに、こちらを餌として見ている。
逃げる、という選択肢が頭をよぎった。でも足がすくんで動かない。追い詰められた僕の口から出たのは、悲鳴でも命乞いでもなく——染みついた、あの言葉だった。
「く……くくっ。いいだろう、見せてやる」
右手の包帯に、そっと左手を添える。
「我が右腕に眠りし《紅蓮の獣》よ。千年の封を解き、いまこそ顕現せよ——」
言いながら、頬が熱くなる。やめろ、と理性が叫んでいる。誰も見ていないとはいえ、これはさすがに。でも、口が止まらない。止めると、たぶん力が出ない。それだけは、なぜか確信があった。
右手に、じわりと熱が集まってくる。本当に。出る。これは、出るやつだ——
獣が、飛びかかってきた。
僕の口上を、一秒も待たずに。
「ちょ、待っ、まだ途中——!!」
詠唱を切った瞬間、右手に集まりかけた熱が、ろうそくの火を吹き消したみたいに、ふっと消えた。
次の瞬間には、地面に転がされていた。肩に牙が食い込む寸前で、必死に腕で防ぐ。獣の口が、すぐ目の前で鳴った。
「なんで、待ってくれないんだよ……!」
叫びながら、わかってしまった。この世界の獣は、僕の中二病に付き合ってくれるほど、優しくはできていない。
そこから先は、みっともなさの記録だった。
転がって、逃げて、また詠唱しかけては噛みつかれ、途中で切って不発。その繰り返し。三回目でようやく悟った。この力は、最後まで——あの、顔から火が出るような言葉を、一言残らず言い切らないと、絶対に出てくれないのだと。
最後は、無我夢中で崖の斜面を転げ落ちて、獣をまいた。全身泥だらけ。手のひらは擦り剥け、膝が笑っている。
異世界に来て、一時間。僕が学んだのはただ一つ。
「僕の魔法、弱すぎる……」
正確には、弱いんじゃない。恥ずかしすぎて、使いこなせないのだ。
川の畔に座り込んで、僕はしばらく動けなかった。
水面に、泥まみれの自分が映っている。切りそこねて不揃いな黒髪が、頬に張りついていた。右目を隠していた長い前髪ごと、卒業を決めた日に、自分で切った髪だ。……その意気込みの、なれの果てがこれである。封印するどころか、異世界まで来て、あの詠唱を叫ぶ羽目になっている。しかも、命がけで。
「……二度と、誰にも聞かせない」
膝を抱えて、そう誓った。あんな言葉。あんな、包帯に手を添える仕草。人前でやったら、今度こそ社会的に死ぬ。ここが異世界でも、それだけは変わらない。世界が変わっても、恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
だから——一人だと、思っていた。
膝を抱えたまま、僕はぼそりと、口の中でつぶやいてしまった。さっきの、不発に終わった詠唱の続きを。誰にも聞かせないと誓ったばかりのくせに、悔しさが口をついて出た。
「……本当なら、あそこで言い切れてたんだ。『我が右腕に眠りし紅蓮の獣よ、千年の封を解き、いまこそ顕現せよ』……って」
背後で、枝を踏む音がした。
僕は、凍りついた。
ゆっくり振り返る。そこに、女の子が立っていた。
僕と同じくらいの歳の、銀色の髪の子。手には水を汲むための桶——その桶には、もう水がなみなみと満ちていた。汲み終えて、あとは帰るだけだったはずの人が、そこで足を止めている。つまり、ずっと。たぶん、あの、一番聞かれたくないところから、聞いていた。
全身から、血の気が引いた。泥の汚れとは別の意味で、顔だけが熱い。
言い訳を、探す。何もない。今のは違う、とも言えない。だって、全部、この口から出た言葉だ。
異世界に来て初めて出会った人間に、よりによって、僕は——黒歴史を、生で聞かれた。
彼女は、しばらく僕を見つめていた。夜空をそのまま閉じ込めたような、深い藍色の目だった。
それから、静かに口を開いた。
「——その言葉」
来る。笑われる。変な奴だと思われる。身構えた僕に、彼女は言った。
「すごく、綺麗だね」
桶を提げたまま、彼女はまっすぐに僕を見ていた。からかう顔でも、呆れた顔でもなく。本気で、そう思っている目だった。
僕は、何も言えなかった。
生まれて初めてだった。あの言葉を——僕がずっと、封印したかったあの言葉を、綺麗だと言った人は。
彼女が、桶を地面に置いて、一歩近づいてくる。
「あなた、名前は?」
結月、と言いかけて、飲み込んだ。それは、封印したはずの名前だ。ここは、あの世界じゃない。だったら——ずっと、こう名乗ってみたかった名前がある。恥ずかしくて、一度も口にできなかった名前が。
どうせ、もう詠唱まで聞かれたのだ。今さら失うものはない。
「……ルナ」
言ってしまってから、また頬が熱くなる。何がルナだ。結月をもじっただけじゃないか。痛い。痛すぎる。
でも彼女は、その名前を、そっと繰り返した。
「ルナ」
まるで、大事なものを確かめるみたいに。
「いい名前。——わたしはヨゾラ。よろしくね、ルナ」
僕の——ルナの黒歴史は、こうして、たった一人の理解者と一緒に、幕を開けてしまった。
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