第7話 家族価格
辺境伯家の門前に着いたとき、エリゼがすでにそこにいた。
馬車を降りた男爵に、エリゼが振り返る。目の下に薄い隈がある。縁談が消えてから、姉の顔色は日に日に悪くなっていた。
「お父様、先に参りましたの。妹を説得してまいります。姉の私なら分かってくれますわ」
エリゼは門番に取り次ぎを求めた。辺境伯家の家令が出てきて、丁寧に、しかし明確に告げた。「奥様はお会いになりません」。エリゼの顔がこわばった。奥様、という呼び方に、妹がもうこちら側の人間ではないことが滲んでいる。
「それは、姉の私にもですか」
「どなた様にも、とのことでございます」
エリゼは門柱の横に立ったまま、動けなくなっていた。説得するつもりで来たのに、説得の席にすら着けない。門の向こうには辺境伯家の庭が広がっているが、その中にいる妹の姿は見えない。
男爵は娘の横を通り過ぎ、家令に向かった。
「辺境伯に直接話がある。男爵家の当主として、娘を里に戻すよう要請したい」
家令は少し間を置いてから、「お通しいたします」と答えた。
応接室に通された。
部屋の奥に辺境伯ガイウスが座っている。その隣に家令。窓際の椅子には、見覚えのない男がいた。王都の紋章が入った衣服を着ている。
「王都から監査にいらしている方です。領地の定期監査の日程が本日でした」
ガイウスがそう紹介した。偶然ではない、と男爵が気づいたのはもう少し後のことだ。この辺境伯は、公的な第三者がいる日を選んで自分たちを通した。妻を守るために場を整える男だった。
エリゼも門前から呼ばれ、応接室に入ってきた。席に着いたが、さきほどの門前払いの衝撃がまだ顔に残っている。
セレスタが入ってきた。
数か月ぶりに見る次女は、記憶と少し違っていた。服装が変わったわけではない。髪型も同じだ。だが立ち方が違う。以前は一歩引いて、視線を下に落としていた。今は正面を見ている。手元に書類の束を持っている。
「家族だろう。家族が助け合うのは当然ではないか」
男爵は椅子から身を乗り出した。帰ってこい、とは言わない。代わりに「家族」という言葉で訴える。七年間、この言葉はすべてを通す鍵だった。帳簿を頼むときも、交渉の書状を任せるときも、姉のドレス代を工面させるときも、「家族なのだから」と言えばセレスタは頷いてきた。今日もそうなるはずだと、男爵はまだ信じている。
セレスタは頷かなかった。
代わりに、持っていた書類の束を卓上に広げる。一枚の紙に、細かい字で表が組まれている。項目と金額が行ごとに記されていた。帳簿と同じ筆跡。正確で、迷いがない。
「家族価格で結構です。それでもこの金額になります」
見積書だった。七年分の労働の見積書。
応接室が静まった。ガイウスは動かない。家令も動かない。監査官だけが、わずかに姿勢を正した。
男爵は見積書を手に取った。最初は流し読みをしようとした。だが最初の行で手が止まる。
帳簿管理。年額が記されている。辺境の書記官の俸給に準拠した金額だとの注記。七年分の合計額が横に添えてある。
声に出して読んだ。自分でも意図していなかったが、喉から出ていた。
「帳簿管理。七年分」
二行目。関税交渉の書状起草。一通あたりの起草費用と、七年間の通数。合計額。父がこれまで自分の名前で送っていたすべての書状が、ここに数字として並んでいる。
「関税交渉の書状起草。七年分」
三行目。使用人の給与計算と支払い管理。毎月の七人分の計算が、七年。
四行目。来客対応と手土産の手配。年間の来客数と一件あたりの手配費用。手土産の選定も、茶の銘柄の管理も、ここに含まれている。
五行目。長女の縁談費用の工面。
この行で、男爵の声が途切れた。縁談費用の工面。セレスタの衣服費の削減と、母の形見の質入れによる原資確保。原資の出所が二つ記されている。両方とも、セレスタ自身のものだった。自分の服を減らし、母の形見を手放して、姉のドレスと縁談の費用を作っていた。その金額が、正確に書かれている。セレスタの帳簿はいつも正確だ。感情で数字を歪めない人間が、感情を排して書いた見積書だから、余計に重い。
隣のエリゼが、五行目を見て息を呑んだ。自分のドレス代と縁談費用の原資が、妹の犠牲で賄われていたことが、数字として可視化されている。
六行目。弟の教育費の采配と騎士学校への推薦準備。
見積書の末尾に、合計金額がある。「家族価格」と注記されたその数字は、男爵家の年収の数倍に達していた。値引きされた後でこの金額になる。値引き前の市場価格も併記されている。
男爵は見積書を持ったまま、しばらく動けなかった。エリゼが横から見積書を覗き込もうとしたが、五行目の先で視線を逸らした。これ以上読み進めることができない顔をしている。
項目の一つ一つを、男爵は知っていた。知っていたが、数えたことはない。帳簿を開くのも、書状を書くのも、手土産を用意するのも、すべて「家にいる娘がやること」だ。やることに値段があるとは考えたこともない。値段があるものを無償で消費していた自覚もない。自覚する必要がなかった。セレスタが黙ってやっていたから。黙ってやる人間の仕事は、やがて空気のように存在を消す。空気に礼を言う人間はいない。
長い沈黙があった。応接室の時計の音だけが聞こえる。
「……全部、あの子がやっていたのか」
声が搾り出された。誰に向かって言ったのか、男爵自身にも分からない。今さら何を言っているのか。知っていたはずだ。だが「知っていた」と「数字で見る」は違う。数字は嘘をつかない。七年分の数字が、この一枚の紙に並んでいる。
エリゼが凍りついている。縁談を失った姉の前で、妹の労働の値段が読み上げられた。縁談費用の工面の行に、自分のドレス代の原資が記されている。自分が「好きでやっていた」と呼んでいた仕事の値段が、ここにある。知りたくなかったことが、帳簿の精度で可視化されている。
窓際の監査官が口を開いた。
「無償の家族労働は美徳ではありません。未払いです」
事務的な声だった。感情を挟まず、制度の言葉で事実を述べている。無償で働かせていたのは美談ではなく、対価を払わなかっただけだ。公的な第三者が、搾取を搾取として認定した瞬間だった。
男爵は何か言おうとした。反論か、弁明か、謝罪か。
「家族だから……いや……」
喉の奥で言葉が詰まる。見積書の数字が目の前にある。この数字に対して、「家族だから」という言葉はもう通らない。「家族だから」で通してきた七年分の言葉が、全部この見積書の上で値段に変わっている。
ガイウスは何も言わない。最初から最後まで、一度も口を挟まなかった。妻の精算に介入せず、ただ公的な場を整えた。それが、この辺境伯のやり方だ。
セレスタが立ち上がった。
見積書を卓上に残したまま、男爵の方を向いた。その目には怒りがなかった。悲しみも、恨みも、勝利の色も。帳簿を閉じるときと同じ静けさだ。
「ご依頼は正式な契約書でお願いいたします。お受けするとは申しておりません」
それだけ言って、セレスタは応接室を出ていった。ガイウスが続いて席を立ち、扉のところでわずかに頭を下げてから部屋を出た。監査官は書類を整えて席を立ち、「失礼いたします」とだけ告げて退室した。
応接室に残されたのは、男爵とエリゼだけだ。
窓から差し込む午後の光が、卓上の見積書を照らしている。七年分の数字が、整った筆跡で並んでいる。男爵はその紙をもう一度見る。最初の行から最後の行まで、どの項目も覚えのある仕事だった。覚えがあるのに、やっていたのは自分ではない。自分はこの仕事に、七年間で一度も礼を言っていない。一度も。それだけの年月をかけて、一度も。
エリゼが隣で黙っている。何も言わない。言えることがない。先ほど門前で「姉の私なら分かってくれますわ」と言った自分の声が、まだ耳に残っているだろう。分かってくれると思っていたのは姉の方で、妹はとうに分かっていた。分かったうえで、ここにいる。
男爵は見積書から目を上げた。閉じた扉の向こうに、セレスタが歩いていった廊下がある。二人が初めて同じ方向を向いて黙り込んでいる。
あの子を失ったのではない。七年かけて手放していたのだ。




