第6話 姉さんの部屋
セレスタ姉さんの部屋を片付けてくれ、と父に言われたのは、商人のヘルマンが帰った翌日だった。
父は書斎に籠もったまま出てこない。姉のエリゼは自分の部屋から動かない。使用人たちは忙しそうだが、何に忙しいのかが分からないという顔をしている。家の空気がおかしくなったのは、セレスタ姉さんが嫁いでからだ。それは十五歳のリュカにも分かっている。だが、何がどうおかしいのかを正確に説明しろと言われたら、できない。帳簿が止まっているらしい。商談がうまくいっていないらしい。姉の縁談が消えたらしい。どれも「らしい」で、リュカの生活に直接触れてはこなかった。
セレスタ姉さんの部屋は、廊下の突き当たりにある。家族の中でいちばん奥の、いちばん小さい部屋だ。日当たりは悪くないが、窓が一つしかない。姉のエリゼの部屋には窓が三つある。リュカはそのことを今まで考えたことがなかった。
扉を開けた。家具はほとんどそのままだった。机、椅子、小さな本棚、衣装箪笥。窓から秋の光が差し込んでいるが、埃が少ない。セレスタ姉さんは自分の部屋を常に整えていたのだろう。いなくなった後でさえ、この部屋だけは整然としている。
衣装箪笥を開けると、ほぼ空だった。質素な服が数着残されているだけで、装飾品の類はない。化粧台の引き出しも空だ。姉のエリゼの化粧台には瓶や小さな飾りが並んでいるが、セレスタ姉さんの引き出しには何もない。持っていったのか、最初からなかったのか。
本棚に手をかけた。本は少ない。代わりに、帳簿が並んでいた。
薄い革表紙の帳簿が、年度ごとに背表紙に数字を振って並べてある。七冊。セレスタ姉さんが十五歳のときから、つまりリュカが八歳のときから、毎年一冊ずつ増えている。七年分の帳簿だ。背表紙のインクの色が年ごとにわずかに違う。七年間、毎年新しいインクで書き続けていたということだ。
最初の一冊を取り出して開いた。
数字の意味は、リュカにはほとんど分からない。だが、帳簿の隣に別の束がある。商人との交渉記録だ。こちらは文章で書かれているので読める。
穀物の流通税率の交渉経緯。木材の仕入れ先の比較表。季節ごとの来客予定と手土産の一覧。使用人の給与計算の控え。騎士学校への推薦状の下書き。
推薦状の下書き。リュカは指先が冷たくなるのを感じた。自分の騎士学校への推薦状の下書きが、セレスタ姉さんの部屋にある。推薦元に出す手紙の文面まで用意されていた。費用の計算も添えてある。教育費の捻出方法が三案、比較されていた。いちばん安い案には丸印がついている。いちばん高い案の余白に「長女の縁談が決まれば予算を回せる」と注記があった。姉の縁談と自分の学費が、セレスタ姉さんの中では一つの帳簿の上で繋がっていたのだ。
さらに奥の棚から、もう一つの束が出てきた。姉のドレス代の工面メモだ。仕立て屋との値引き交渉の記録、布地の仕入れ先の比較、季節ごとの衣装計画。計画の端に、細かい字で「長女の縁談費用に充当」と書かれている。費用の出所は、セレスタ姉さん自身の衣服費の削減と、母の形見の質入れだった。
質入れ。リュカは帳簿の最後のページを開いた。最終行に「雑費」と書かれた項目がある。金額は小さい。だがその横に、鉛筆でごく薄く「母の形見」と注記されていた。帳簿の正式な分類には載らない、セレスタ姉さんだけが知っている意味が、ここにある。
リュカは帳簿を閉じ、膝の上に置いた。
自分が何を言ったか思い出している。「姉さんみたいに華やかなら、家の役に立てるのにね」。台所で、水仕事をしているセレスタ姉さんに向かって言った言葉だ。姉さんは「そうね」とだけ返した。怒りも、悲しみも、表情には出なかった。ただ、水の中の皿をもう一枚持ち上げて、黙って洗い続ける。あのとき自分は、姉さんが怒らないことを「気にしていない」と読んだ。気にしていないのではなく、怒る相手がいなかっただけかもしれない。
家の役に立っていなかったのは、姉さんの方ではなかった。帳簿を読めず、交渉の記録も見たことがなく、姉のドレス代がどこから出ているかも知らず、自分の教育費をセレスタ姉さんが計算していたことすら知らなかった。知らなかったことを、恥ずかしいとすら思わなかった。家族全員がそうだ。それが、いちばん恥ずかしい。
「家の役に立っていなかったのは、僕らの方だった」
声に出すと、部屋の静けさがいっそう深くなった。
辺境伯家の執務室で、ガイウスがセレスタの前に帳簿を広げている。
「今期の交易収支は、君の采配の結果だ」
セレスタは少し驚いた顔をした。成果を自分の名前で語られることに、まだ慣れていない。
男爵家では、父が書斎でセレスタ宛ての手紙を書いていた。
「家が大変なのだ。帰ってきてほしい」
リュカは父がその手紙を封筒に入れるのを廊下から見ていた。帰ってこいとは書いてあるが、謝罪の言葉は一行もない。セレスタ姉さんにこれまで何をしてもらっていたかも書いていない。ただ「大変だから戻れ」とだけ書かれている。それは手紙ではなく、命令だ。
手紙は辺境伯家に届き、三日後に未開封のまま返送されてきた。封蝋が割られていない。読まれてすらいない。婚姻契約の「無償援助禁止」の条項を、父は思い出しているだろうか。あの契約書のことを、リュカは姉のエリゼから聞いて知っている。
父は返送された手紙を書斎の机に置き、長いこと眺めていた。それから引き出しにしまい、何も言わずに書斎の扉を閉める。
リュカもセレスタ姉さんに手紙を書こうと思った。便箋を取り出し、自分の部屋の机の前に座る。筆を取った。
「セレスタ姉さん、僕は……」
声に出してみたが、その先が続かない。「ごめん」と書こうとした。だが何に対して謝るのかを正確に書こうとすると、それは七年分の帳簿の量になる。「戻ってきて」とも書こうとした。だがそれは父と同じだ。帰ってきてほしいのは、セレスタ姉さんのためなどではない。家のためだ。姉さんの部屋にあった帳簿は、姉さんのために書かれたものではない。この家のために、七年間、無償で書かれ続けたものだ。「ありがとう」はどうか。それが正しい言葉な気がする。だが七年分の「ありがとう」を今さら一通の手紙に書いて、それで何になるのか。遅すぎたという事実は、言葉では変わらない。
姉さんの部屋には、七年分の家の背骨が置いてあった。
筆を置いた。便箋は白いままだ。




