第5話 取引の宛名
秋の決済の確認のために、穀物商ヘルマンが男爵邸の門を叩いた。
毎年この時期になると、収穫量の最終報告と翌年の契約更新の下書きを持って男爵邸に顔を出す。応対するのはいつもセレスタだった。帳簿を広げ、昨年との差異を確認し、こちらの見積もりに対して根拠のある反論を返してくる。二十二歳の次女とは思えない交渉力だが、ヘルマンはそれを若さとは無関係に評価していた。数字を正確に扱える人間に年齢は関係ない。信用に足るかどうかだけが、商人の判断基準だ。
門を叩くと、使用人頭のロッタが出てきた。以前は門を叩く前に門番が気づいて通してくれたが、今日は少し待たされた。小さなことだが、ヘルマンの目にはこうした細部が映る。家の管理が緩んでいるときは、門の対応から変わる。
「ヘルマン様、申し訳ございません。セレスタ様はもうこちらにはおられません」
嫁いだという話は耳にしていた。辺境伯家に、と聞いたとき、ヘルマンは少し安堵した。辺境伯の交易実務なら、あの帳簿の腕は正当に使われるだろう。同時に、男爵家との取引の先行きについては、その時点で見通しを立てていた。
応接室に通された。茶が出たが、以前とは銘柄が違う。湯の温度もぬるい。季節の菓子も置かれていない。以前は訪問のたびに辺境の蜂蜜菓子が用意されていた。セレスタが好みを覚えていてくれたのだ。今日の応接室には、茶以外に何もない。
男爵が入ってきた。
一目で疲弊が分かった。目の下に隈があり、書斎から持ってきたらしい書類の束を抱えている。書類の角が折れているのは、整理が行き届いていない証拠だ。以前のセレスタの書類は、一枚も角が折れたことがなかった。
「ヘルマン殿、今年も世話になる。決済の件だが、少し待ってもらえんか。帳簿の引き継ぎが済んでいなくてな」
「引き継ぎ、ですか」
「上の娘が帳簿を引き受ける予定だ。もう少し時間をくれれば問題ない」
ヘルマンは答えを急がなかった。上の娘、というのは長女のエリゼのことだろう。夜会では何度か見かけたことがある。華やかで、会話の上手い令嬢だ。だが帳簿の仕事をしている姿は見たことがない。取引の場に顔を出したこともない。
「令嬢は決済書の読み方をご存じですか」
卓の上に広げられた決済書類を見た。数字の記入が途中で止まっており、何か所か消した跡がある。セレスタの帳簿にはこういう跡がなかった。一度も書き直さずに完成させていた。
「それは、これから覚えればいいだろう。家族なのだから、支え合うのは当然だ」
家族なのだから。ヘルマンはその言葉を聞き流した。商人にとって、取引相手の家庭事情は関心の外にある。関心があるのは、帳簿を正確に扱えるかどうか、交渉の論理が通るかどうか、期日を守れるかどうか。その三つだけだ。
「男爵、率直に申し上げます」
ヘルマンは茶碗を置いた。
「男爵家と取引していたつもりはございません。あの帳簿の主と取引していたのです」
向かいの椅子で、男爵の表情が一瞬止まった。意味を捉えかねている顔だ。
「帳簿の主、というのは」
「セレスタ殿です。決済書の書式も、交渉の論拠の組み方も、期日管理の正確さも、すべてセレスタ殿の仕事でした。私だけではありません。麻布商のレーナー、木材のブリュック、いずれもセレスタ殿の帳簿を信頼して取引を続けていたはずです」
長い沈黙が落ちた。男爵は何か言おうとして、やめた。反論の根拠がないのだろう。ヘルマンは同情しなかった。商人は同情で取引をしない。数字が合わない相手とは取引をしない。それだけのことだ。
「今季の決済は、申し訳ありませんが保留とさせてください。帳簿の体制が整い次第、改めてご連絡をいただければ検討いたします」
整う見込みがあるとは思っていない。だがそれを言うのは商人の仕事ではない。できるかどうかは男爵家の問題であり、ヘルマンが判断するのは結果だけだ。
男爵は頷いた。頷くしかなかったのだろう。席を立つヘルマンを引き留める言葉は、出てこなかった。
門を出て、馬車に乗り込んだ。
御者が行き先を聞く前に、ヘルマンは少しだけ男爵邸の門を振り返った。石造りの門柱は立派だが、庭の手入れが以前より雑になっている。花壇の縁が崩れかけているのは、管理する人間がいなくなった証拠だ。あの家は気づいていなかったのだ。自分たちが何の上に立っていたかを。
レーナーとブリュックにも連絡を入れなければならない。おそらく二人とも、同じ結論に達しているだろう。セレスタ殿が男爵家にいない以上、取引の根拠が消えたということだ。商人は根拠で動く。根拠のない看板には、用がない。
馬車が動き出した。辺境伯家の方角に一瞬だけ目をやる。あの帳簿の腕なら、辺境の交易でもすでに成果を出しているはずだ。いずれ辺境伯家との取引を打診してもいい。そのときの窓口は、もう「次女殿」ではない。辺境伯夫人だ。
男爵家と取引していたつもりはない。あの帳簿の主と取引していたのだ。




