第4話 身辺調査
侯爵家の紋章が押された書状が届いたのは、茶会の支度をしている最中だった。
エリゼは侍女に髪を結い上げてもらいながら、封蝋を割った。縁談の正式な手順として身辺調査が始まるという通知で、予定通りだ。調査は形式的なものだとエリゼは考えている。ヴォルニエ男爵家の名前と、これまでの社交界での評判があれば、問題になることはない。
鏡の中の自分を見る。銀糸の刺繍が入った新しいドレスに、先月仕立てた真珠の耳飾り、胸元の飾り布。どれも季節ごとに仕立て屋と交渉して揃えたものだが、その交渉を誰がやっていたかをエリゼは考えたことがない。毎季節、新しい衣装が用意される。仕立て屋の名前も、値引きの中身も、費用がどの項目から出ているかも、エリゼの世界の外側にある。
妹は裏方が好きな子だった。帳簿や商人との細かいやり取りを嫌がったことは一度もないし、社交の場には自分から出たがらなかった。表に出るのは姉の仕事で、裏で支えるのは妹の仕事。この家の自然な分担であり、二人ともそれで不満はなかったはずだ。
妹が嫁いでからもう一か月以上が経つ。帳簿のことで家が少しざわついているのは知っているが、エリゼの日常には大きな影響がない。茶会はある。夜会の予定もある。ドレスは前の季節に仕立てたものがまだ使える。ただ、先日の茶会で手土産が用意されていなかったのは少し困った。以前は季節の菓子が必ず揃っていたのに、今は誰も手配していない。それでも会話の力で乗り切れたから、裏方がいなくなっても表舞台はまだ回っている。エリゼはそう思っていた。
調査の結果が届いたのは、十日後の朝だった。
侯爵家の執事が男爵邸を訪問し、父と二人で応接室に入る。エリゼは席を外すよう言われ、一時間ほどして呼ばれた。父の顔色が悪い。
応接室の卓上に、調査報告書が広げられている。表紙にはエリゼの名前が筆記体で記されていた。調査対象は長女エリゼ・ヴォルニエ、調査範囲は家政・財政・対外信用。
最初の数ページは問題なかった。社交の評判は「華やかで好感が持てる」、容姿と教養は「侯爵家にふさわしい水準」。ここまではエリゼが期待した通りだ。社交界での自分の立ち位置は、自分の努力で築いたものだという自負がある。会話の巧みさも、場を華やがせる才覚も、エリゼ自身のものだ。それは間違いない。
問題は財政の項から始まった。読み進めるにつれて、エリゼの表情が変わっていく。
「男爵家の帳簿を実質的に管理していたのは次女であり、当主の対外交渉の書状も次女が起草していたことが、取引先への聞き取りで判明」
取引先への聞き取り。商人たちが聞かれたのだ。誰が帳簿をつけていたのかを、誰が交渉の書状を書いていたのかを。そして商人たちは、正直に答えた。
次の項目。
「次女の婚出後、商談三件が不成立。使用人の給金支払いに遅延あり。財政基盤に懸念」
さらに一項目。
「男爵家に未申告の借入あり。縁談費用の一部は次女が私費で工面していた形跡」
エリゼの目がその行で止まる。
縁談費用を妹が工面していた。自分の縁談の費用の一部を、セレスタが出していた。そのことを、エリゼは知らなかった。費用の心配をしたことがないのは、心配する必要がなかったからだ。なぜ必要がなかったかを、今まで問うたことはない。誰かが黙って処理していたからだ。その「誰か」が妹だったと、調査報告書が言っている。
父が口を開いた。
「ここまで……いや、調べるにしても、やり方がある」
ここまで、というのは商人への聞き取りのことだ。父の認識では、商人たちは男爵の名前で取引していた。だが聞き取りの結果には、複数の商人が「実務は次女殿が担当されていた」と回答している。中には「取引の窓口は次女殿だった。当主との直接のやり取りは署名のみ」と答えた者もいる。
署名のみ。父がやっていたことは、署名だけだった。書状も、交渉の下準備も、帳簿の管理も、すべてセレスタがやり、父はその上に名前を書いていた。そのことを商人たちは知っていて、聞かれたから答えた。外の世界では、とうに知られていたことだ。
「お父様、これは何かの間違いでは」
父は答えなかった。答えないということが答えだ。
翌朝、侯爵家からもう一通の書状が届いた。
封蝋を割る指が震えている。中身は短い。「縁談につきましては、双方にとってより良い時期を待つことが望ましく、今回は見送りたく存じます」。丁寧な言葉で、しかし明確な断りだった。より良い時期、という言い回しが、二度はないことを意味しているのはエリゼにも分かる。
「妹が嫁いだだけよ。なぜ私の縁談にまで関わるの」
声に出して言ってから、その言葉を自分で聞いた。妹が嫁いだだけ。だけ。だが、その「だけ」が帳簿を止め、商談を壊し、借金を露呈させ、調査報告書に傷をつけ、この書状を届けさせた。「だけ」で済む規模の不在ではなかったということを、報告書の数字が言っている。
エリゼは自分の部屋に戻り、化粧台の前に座った。鏡の中に、銀糸のドレスを着た自分がいる。このドレスの仕立て代を誰が交渉したのか。布地の手配も、仕立て屋との値引きも、毎季節の衣装計画も、すべて裏方の仕事だった。その裏方がいなくなったとき、表舞台の自分に何が残るのか。
社交はできる。会話もできる。相手を楽しませることも、場の空気を読むこともできる。だが社交の席に着くまでの準備の一切を、エリゼは一度も自分でやったことがない。手土産の選定も、席順の根回しも、帰りの馬車の手配も、全部セレスタが黙ってやっていた。やっていたことを、エリゼは「好きでやっていた」と呼んでいた。好きかどうかをセレスタに聞いたことは、一度もない。聞く必要がないと思っていた。だって嫌がらなかったから。嫌がらないことと好きなことは違うと、今になって少しだけ思う。
化粧台の引き出しの奥に、質札がある。セレスタの部屋にあった小箱から出した母の形見の代わりだ。あの質入れの金は、自分のドレスの手付けに使われた。形見を質に入れてまでドレスを用意し、そのドレスで出た夜会で侯爵家との縁談が始まった。始まりの部分からすでに、妹の犠牲の上に立っていたことになる。
侯爵家の報告書をもう一度手に取る。表紙のエリゼ・ヴォルニエという名前を眺め、ページをめくった。どこを開いても妹の名前が出てくる。妹の帳簿、妹の交渉、妹の工面。
私の名前で調べられたはずなのに、出てきたのは妹の仕事だった。




