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私の代わりは、いなかったようです  作者: 九葉(くずは)


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第3話 止まった帳簿

 セレスタが嫁いで一か月が経った朝、使用人頭のロッタが書斎に来た。


「旦那様、収穫期の商談の件ですが、決済書類が三件、処理できておりません」


「なぜだ」


「セレスタ様がいつも作成されていたもので、書式が分かる者がおりません」


 ロッタの声は平坦だった。報告というより確認に近い。この一か月、似たような確認が何度かあった。来客への季節の挨拶状が出ていない。手土産の手配が止まっている。取引先への支払い明細の書式が分からない。どれも、以前は勝手に済んでいたものだ。


「あの子が抜けた程度で、家が回らんわけがないだろう」


 ロッタは何も言わず頭を下げた。反論がないのは同意しているからではない。反論しても仕方がないと判断した顔だ。使用人の方が先に状況を理解している。


 決済書類の三件は穀物の買付と領民への前払いと王都への税金の仮計上で、どれも期限がある。期限を過ぎれば違約金が発生するものもあった。セレスタがいた頃は、期限の一週間前には処理が済んでいて、男爵が期限を意識したことすらない。


 来客用の手土産も止まっている。以前は季節ごとに地方の菓子が用意されていたが、仕入れ先も数量もセレスタが管理していた。先週来た取引先には茶しか出せず、相手が妙な顔をしていた。季節の挨拶状も出ていない。例年ならこの時期に三十通は発送しているはずだが、宛先の一覧がどこにあるかすら分からなかった。


 昼前、もうひとつ報告が来た。使用人への給金の支払いが遅延している。


 先月の支払日はセレスタが嫁いだ直後だったが、計算の途中で止まったまま誰も引き継いでいなかった。使用人は七人いる。各自の勤務日数と手当と控除を計算し、帳簿に記録して現金を用意する。それだけの手順が、誰にもできない。使用人たちは文句を言わない。言わないが、朝食の支度が以前より遅くなり、庭の手入れが一角だけ止まっている。


 長女のエリゼを呼んだ。


「お前が帳簿を見てくれ。お前なら社交もできるし、数字の一つや二つ」


 エリゼは帳簿を受け取り、開き、しばらく眺めてから閉じた。


「お父様、これ、何が書いてあるか分かりません」


「何が分からない」


「全部です。この略号も、この欄の数字が何を指しているのかも。セレスタに聞かないと……」


 セレスタに聞かないと。ロッタと同じ言葉だった。


 この家で帳簿を読める人間がセレスタだけだったということに、男爵は今になって気づき始めている。気づき始めてはいるが、まだ認めてはいない。帳簿の書き方を知っている人間を雇えばいい。使用人を増やすか、外部の書記を入れればいいだけの話だ。次女一人がいなくなっただけで家が傾くなどということは、ありえない。


 エリゼは帳簿を書斎の机に置いて出ていった。夕方の茶会に向けて髪を整える支度があるという。去り際に「妹が好きでやっていたことだから、引き継ぎがないのは仕方ないわ」と言った。好きでやっていた、という認識が姉にも父にも共有されている。好きかどうかをセレスタに確認したことはないが、嫌そうな顔をしたこともなかったから、好きなのだと思っていた。あの子は家にいる分には使い道がある。そう言ったのは自分だ。使い道があるのと好きでやるのは同じことだと、男爵は思っていた。


 夕刻、書斎で一人になった。


 机の上にはエリゼが置いていった帳簿と、未処理の決済書類の束がある。商談相手から催促の書状が二通届いていた。一通目は丁寧だったが、二通目の語調は硬い。宛名は男爵だが、内容はセレスタが以前に取り交わした覚書の続きだった。覚書の存在自体を男爵は知らない。


 帳簿を開いた。


 セレスタの筆跡が並んでいる。整った文字で、行ごとに分類と金額と日付が記されている。交際費、仕入れ、仮払い、交際費、雑費。どの行も同じ太さで、同じインクで書かれていた。七年分の帳簿がこの棚に並んでいて、すべて同じ筆跡だ。


 数字自体は読める。だが、この数字が何を意味しているのかが分からない。この「交際費」はどの取引先への支払いなのか。この「仮払い」はどの商談の前渡しなのか。分類の略号はセレスタの独自のもので、注記がない。注記がないのは、セレスタ以外に読む人間がいなかったからだ。


 最後の行に「雑費」とある。金額は小さいが、何の雑費かは書かれていない。どの行にも、セレスタにしか分からない文脈が埋まっている。


 男爵は帳簿を閉じようとして、やめた。閉じたところで明日の商談は来る。使用人の給金も払わなければならない。書記を雇うとしても、この帳簿の体系を解読するまでに何日かかるか分からない。


 一時的な混乱だ。次女一人がいなくなった程度で、この家が立ち行かなくなるはずがない。商人を一人雇えば済むことだ。男爵はそう自分に言い聞かせ、帳簿を開いたままにして席を立った。立ったが、扉の前で足が止まる。振り返ると、開いたままの帳簿が机の上にある。セレスタの筆跡が、灯りの下で静かに並んでいる。


 帳簿の数字が、誰にも読めない。

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